姉崎古墳群

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  古墳群概要
  古墳一覧
  古墳時代
  姉崎古墳群の性格

<古墳群概要>
市原市には1,000基を越える古墳が確認されているが全長が50m以上の大型前方後円墳は20基前後,100mを越えるものは3基である。 このうちの大半は姉崎に集中しており、これらを姉崎古墳群と呼んでいる。
 姉崎古墳群は、5世紀後半に境川流域に住みつき、姉埼神社を氏神として祀っていた上海上国造(かみつうながみのくにのみやっこ)一族の墳墓といわれている。 主な墳墓に「天神山古墳」「釈迦山古墳」「二子塚古墳」「山王山古墳(消滅)」「原古墳(消滅)」「鶴窪古墳」「堰頭古墳」「六孫王原古墳」等がある。 これらは上海上の首長層の墳墓であり、一族の往時の権力を偲ばせるとともに、当時の豪族の一連の系譜が捉えられる貴重なものとなっている。 この他に30基程度の古墳(多くは円墳)があったが、現存するのは迎田1〜6号古墳など10基ばかりとなっている。

<古墳一覧>

天神山 天神山古墳(4世紀中葉)
千葉県指定史跡
所在地:千葉県市原市姉崎2849
全長130m、高さ12m 姉崎古墳群のなかで最も大きい前方後円墳。未発掘調査。
桜の名所ともなっている。


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釈迦山釈迦山古墳 (4世紀中葉)
所在地:千葉県市原市姉崎2217
全長91mの前方後円墳。
姉埼神社の隣にあるが案内板も無く分かり難い。
二子塚 二子塚古墳 (5世紀中葉)
千葉県指定史跡
所在地:千葉県市原市姉崎二子1762
全長106m高さ9Mの前方後円墳で、銀製耳飾り、白銅鏡の他、多数の品が出土している。なかでも「石枕」(いしまくら)は国の重要文化財に指定されている。

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山王山山王山古墳 (6世紀前半)     詳細
所在地:千葉県市原市姉崎
全長75mの前方後円墳(消滅)
昭和38年、まさにブルトーザーで削り取られようとしていたとき工事を中断し発掘調査を行った。
銀装の環頭太刀、銅製冠、鏡などが出土している。

写真は当時のもの(手前は旧姉崎中学校)
鶴窪 鶴窪古墳 (6世紀後半)
市原市指定史跡
所在地千葉県市原市姉崎2957
舌状台地を平らに削りとった地盤の上に築かれており、全長45m基盤部を含めると65mあり古墳群のなかで中くらいの前方後円墳。


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堰頭堰頭古墳 (7世紀)
所在地:千葉県市原青葉台四丁目
全長45m 未発掘調査
場所は見つからなかった。写真はそのあたり!?
六孫王原六孫王原古墳 (7世紀中葉)
所在地:市原市姉崎3221
市原市指定史跡
姉崎古墳群の中で最終段階の前方後方墳
全長45m金銅製馬具、直刀、須恵器大甕等の出土品がある。

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番外地編
稲荷山稲荷山古墳 
所在地:姉ヶ崎小学校の隣
有名な鉄剣が出土したのは「埼玉さきたま」の稲荷山
・・では、これは・・?

<古墳時代>
古墳時代は3世紀後半から7世紀前半にかけて続いた。姉崎古墳群も4世紀〜7世紀にかけて造営されたとされている。 当時の日本はどのような状況であったのだろうか。
白石太一郎著『古墳とヤマト政権』より紹介をする。

前方後円墳は3世紀後半に畿内、瀬戸内沿岸、北九州に出現する。このなかで奈良県桜井市の箸墓古墳が名高い。 前方後円墳は弥生時代の後期(2世紀後半)の大型墳墓の流れを汲むものであるが、その形は我国独特のものである。
この時期は畿内に「ヤマト政権」が形成され、その覇権が確立した頃にあたる。覇権が確立したと言っても中央集権的な国家ではなく、広域の政治連合であった。
畿内〜瀬戸内〜北九州は朝鮮半島へ通じるルートであり、交易、先進文化を摂取するうえでここを支配権に置くことが必要であった。
「ヤマト政権」はこの地域に版図を拡大するとともに、共通な葬送祭祀で各地域の首長との絆を強化していった。これにより前方後円墳が畿内〜瀬戸内〜北九州に造営されることとなった。

これに対し東日本では前方後方墳の造営が盛んであった。これは東日本が濃尾平野に一大勢力を構える狗奴国の連合下にあり、狗奴国の古墳造営の秩序に従ったものであった。
しかし、この前方後方墳も狗奴国が「ヤマト政権」の配下になるに及んで前方後円墳に転換していった。 4世紀後半になると出雲などの地方勢力の強いごく一部の地域を除いて、殆どが前方後円墳となってしまう。
[資料館注:『六孫王原古墳』は古墳時代末期の造営ながら前方後方墳であることは興味深い。]

5世紀は巨大古墳の世紀と云われ、近畿地方では、最大の前方後円墳である仁徳陵(長径486m)を始めとする多くの巨大古墳が造営された。 これは「ヤマト政権」で王権の世襲が確立されていき、幾世代もの盟主墓が造営されたものによる。 また時に大王家はその本拠地を移動することがあったため、王墓もその勢力の本拠地に造営された。このため大和・河内地方には大型前方後円墳を抱える多くの古墳群が残っている。
地方においては「ヤマト政権」を後ろ盾とした地域的首長連合が各地に存在しており、地域ごとに盟主権は持ち回されていた。 この盟主墓として古墳が造営された。

5世紀後半に雄略天皇が立ち、王権が強化され律令国家への始動が始まる。雄略天皇は埼玉・稲荷山古墳より出土した鉄剣の銘にある『ワカタケル大王』である。
さらに6世紀には国造制(くにのみやっこ)が採られ、中央政権が強化されていく。これとともに地域首長連合は、中央豪族とその配下の地方豪族との体制に変形していき、盟主墓であった前方後円墳は次第に姿を消していった。
前方後円墳は7世紀始め(飛鳥時代)には全く見られなくなり、これに替わって大型の円墳、方墳が出現してくることになる。


<姉崎古墳群の性格>
平安時代に書かれた『国造本紀(こくぞうほんぎ)』によれば、成務天皇の時、天穂日命八世の孫忍立化多比命(おしたてけたひのみこと)が初めて上海上国造に任じられている。
西上総地方には四つの国造(菊間・上海上・馬来田・須恵)があり、上海上国は養老川の西南の旧海上郡であったと推定されている。
(海上郡は『和名抄』によると南は現在の南総町辺から高滝方面に及び、東は養老川、西は君津郡境、北は東京湾におよぶ広域にわたる。)
姉崎はこの地域の中心地区であり、姉崎古墳群はこの上海上国造およびその前身である地域首長の歴代の墳墓とされている。国造制の成立は6世紀代とされおり、古墳造営年代からすると山王山古墳の被葬以降が上海上国造であった可能性が高い。

当時は台地と東京湾の間の狭い沖積平野が農業生産の基盤地域であり、首長の強力な統制の下での共同労働によって、谷水田や砂堤間の水田の開発が進められたと考えられる。この沖積平野の開発がもたらした農業生産力の高さと、それを達成した共同体の結束力が姉崎の共同体が支配的な位置を占める基本的な条件となった。 この共同体の首長が上海上一族である。

造営年代から見ると5世紀代の二子塚古墳、6世紀の山王山・釈迦山・鶴窪古墳、7世紀代の六孫王原・堰頭古墳と年代順に北から南へと移動している。
また、発掘調査・研究からそれぞれの古墳は先築の古墳を基準に造営されており、その造営順は
天神山ー釈迦山ー二子塚ー山王山ー原1号ー六孫王原
となる。
これらのことから、姉崎古墳群は5世紀初頭から7世紀中葉までの250年前後にわたる首長権の継承が想定できる貴重な古墳群であるとされている。
参考文献
 ・千葉県重要古墳群測量調査報告書書(市原市姉崎古墳群)  1994.3  千葉県教育委員会
 ・私たちの文化財No6   1986.12  市原市文化財センター
 ・古墳とヤマト政権    2001.11  白石太一郎著  文春新書