山王山古墳


 昭和38年旅館建設のため古墳を削る工事が始まったとき、市教育委員会の申し入れにより工事を中断して急遽、国学院大学の大場磐雄博士を団長として発掘調査がおこなわれた。

写真はブルトーザーに削られようとする古墳



 山王山古墳は姉崎神社の地続きの尾根状に狭まった自然地形を整形して造られた前方後円墳であるため、その墳形はあまりよく整っていなかったと思われる。変形も著しいため正確な推定が難しいが長軸長75~80m、後円部径34m、前方部先端幅54ないし48mの規模であった。
 棺内からは、銀装の環頭太刀、木製の直刀1、刀子2、胡籙(ころく:竹冠に録の文字:矢を入れ背負う道具)および鉄鏃、銅製冠1、銅製耳輪1対、櫛数個体分、鏡1などの遺物が出土した。
山王山古墳も『上海上国造』の首長の墳墓の一つと推定されている。

写真は遺物出土状況と環頭太刀の柄部(竜頭を柄頭の中に鋳出し、環でその同体を表現)、鏡と櫛の出土状況
 
『姉崎山王山古墳』 山王山古墳調査団代表 大場磐雄著 発行 市原市教育委員会 1963年 より



山王山古墳にまつわる狐の話
山王山の山頂には江戸時代に建てられた山王大権現という石の小祠があった。
山王山は深い藪になっており、ここに『おさん狐』という雌狐が住んでいた。 この狐は山王様にお仕えする者として、迫害するものは誰もいなかった。
『八反甫の浜へ夜の漁へいった者が、おさん狐の提灯を見た。
 夏の夕べに浴衣を着た美女に化けて若い衆たちをたぶらかした。
 盆踊りに見知らぬ若い娘がいたので、跡をつけたら山王山の藪の中に消えた。
 この狐は椎津の城山にいる狐のお妾さんだった。』
等々の説話があったそうであるが、今はこれらの話は忘れさられていまった。
『市原市史(別巻)』市原市 昭和54年より