椎津・カラダミ(空荼毘)

椎津では毎年、旧盆の8月15日「カラダミ」の行事を行っています。
『そらやっせ おっこらしょ じゃらぼこ じゃらぼこ おんじゃんじゃん』
夕闇に浮ぶ「万燈」を曳き廻し、一斗缶を叩く独特のリズム、掛け声の間を走る鉦の音、賑やかな行列がゆったりと進みます。
 目的地まで来ると見物人は、万燈のバレン(写真の長く垂れ下がった飾り)をわれ先にとの奪い合い、家々の門口に差して悪魔除けにされます。

 バレンを手に手に人々が帰宅し、静まりかえった闇のなかに
『おっかが死んじまったよ かかが死んだよ』との嘆き声が聞こえ、いよいよ「カラダミ」の始まりです。
 「団子貰い」を先頭に棺桶を担いだ行列が、嘆きながらもと来た道を瑞安寺へ向います。
瑞安寺では「椎津小太郎義昌」の位牌の前で、行列の人々によって葬儀の真似事が行われます。

 このカラダミの行事は、昭和40年後半に一度途絶えましたが青年会等の手により復活され、平成19年3月、『千葉県無形民俗文化財』に指定されました。

平成19年に行われた「カラダミ」の様子(音付
き) ==>ここ


  団子貰い

    練り踊り

  バレン

  棺桶から手が!?

  仮葬儀



「カラダミ」の謂れは『旧椎津城主・椎津小太郎の葬式を偽装したもの』と云われていますが、はっきりはしていません。 諸説を紹介します。

竹内 文治郎氏(「市原の年中行事」市原市教育委員会 昭和40年3月に発行 より)
 毎年お盆の十五日の夜行なわれるからだみは、空棺の葬式の事である。その縁起は、今よりおよそ四百年前の事、当時椎津城主樵津小太郎義昌は、里見氏に属していた。
義昌の生れは房州那古の人で早くより両親に別れ、至孝の人であつた。また徳望高く、慈悲心深く、夫人は真里谷信篤の八女輝代姫で、十七才で嫁がれた。その際守神として薬師如来を持ってきたが嫁がれてより三年目、この辺一帯に疫病流行し、死する者多く、ここに義昌平癒祈願のため駒ケ崎に薬師寺を建立し祈願した。その霊験灼にして、領内屏息した。領民は城主を親の如く慕い、又城主も民を赤子の如いたわり、領内は常に無風の如く平和であつた。然しままならぬは常。天文二十一年六月三日北条氏康二万の兵を卒い海陸両方面より椎津城を攻めた。義昌大敗し境川に沿い迎田永藤を経て山谷へ逃げた。主従十九人、漸く山谷の地頭堂へたどり着いた。
矢傷刀傷を受けた義昌は今はこれまでと自殺をはかろうとしたが、夫人はこれ留め、ここにて死する時は世間の人、あなたは刑されたと申しますよとしつかり手を握り、ここは刑場てす。元来山谷とは惨谷の意で昔の刑場の跡が多く、義昌は死を思い直し、その時木間より燈火を見て人家のあるを知り、農家に行つてニ、三日ここに隠れ、後高谷の延命寺に行き更に真里谷に行き再挙を計り、昔より一将功成りて萬骨枯るとか、今再挙せは多く犠牲者を出す。それは忍びずと遂に農民となつた。現在その辺に椎津という姓あり又地名に椎津谷椎津くぼの名がある。叉一方椎津方面ではあの城主は今、何の便りもなく大方戦死せし者と考え、五年後漁民達は相談の結果総左衛門 惣左衛門 五郎治 五郎兵衛 仁左衛門が発起人となり、せめても仮葬式なりとも行なわんと計り、現城主をはばかり、夜分に行なう事となし、現在は青年団の主催で端安寺にて萬燈を造り、二本長い綱を引き、その中に仮装の人が多く入りち、そりやせ、こりやせ、じやらぼこ、じゃんじゃんじやんと調子をとり薬師寺へ向い、途中八坂神社境内に盆踊をなし、再び薬師へ向い、寺に着けば萬燈をこわす。その時人々は先を争い、そのばれん貰い受け、家に持ち帰り門口にさし、魔よけとした。萬燈の中には棺の仕度あり、ここで葬式の列をつくり棺をかつぎ読経をしながらうちわたいこをたゝきながら端安寺に帰った。この寺には義昌両親の仮墓地があるため、ここの親の所に埋葬したという。
この行事は椎津民島の報思の念の厚きを示し、四百年後の今日でも行をわれ、若し行なわぬ時は疫病あるやとの迷信もある。

田丸英二氏(「十年の歩み」市原市文化財研究会 昭和48年11月発行より)
 椎津に「から陀弥」と云って、葬式の真似をする珍らしい行事があった。
 月おくれの盆、八月十五日の夜に部落の青年達によって行なはれた。いつの時代から初まったものか、又どういう謂れをもっているのか判らない。ただ、それをやらなければならないものゝように、代々受げ継がれて来た行事である。
 十五日といえばお盆の終りの日であるが、午後になると、暑い日盛りの中を、青年達は部落南はづれの瑞安寺前に集まって、萬燈の製作にとりかゝる。大陽が西の海に沈んで夕涼みのころになると、玉切輪を使った大きな車の上に、馬簾が下り高く人形が飾られ立派な萬燈が出来上っていた。
そして、この萬燈の車には、かならず棺桶と、棺をのせて担ぐ台とが用意されていなければならなかった。
 しかし、斯うした萬燈の作りかた、またこれから述べるからだみの状景は、大分まえのことであって、戦後は段々と簡略化され、粗末な萬燈にもなり細々続けられていた感じだったが、とうとう二年程前から行はれなくなってしまった。古い伝統をもつ行事が、自然消滅のかたで失はれてしまったことは残念でならない。
 話は前にもどるが、このからだみ萬燈の出発に先行して、だんごもらい、というのをやる。二人の青年で行なはれ、一人は寺から借りた法衣を纏い、も一人は農夫の恰好などして背負篭を負っている。法衣の青年が鐘を打ち、出鱈目のお経を説えながら軒下に盆提灯の下った家々を廻ると、夫々の家では、もう一人の青年の背負篭に、当日仏壇に供えただんごを人れるのだった。多分だんごが随分たくさん集まっだことゝ思うが、このだんごは、からだみを終えて青年達が慰労に一杯やる時に、食べるのが習慣となっていた。
さて、萬燈は出来上っていても、明りを燈し飾ってあってもなかなか出発しなかった。十時か十一時、引き手の子供等が眠くなるころ漸く出発ということになる。萬燈を乗せた車の両端から一本づつ太い綱を長く伸ばし、その綱に子供等がたくさんついて引いた。両側の綱の間を思い々々に仮装した青年達が、たゞ、手足を動かす丈けの出鱈目踊りを、子供等の「そらーややっこらせ、じゃらぼこじゃらぼこ、おんじゃんじゃん」と云う掛声に合せて踊っていた。
夏の夜更を、こうした賑やかな行列が村のはづれからはづれまでゆるゆると流れてゆくのであった。
萬燈が駒ケ崎の毎年定まっている終点に着くと其処でばらばらにこわされ、用意して来た棺桶と台とが車から降ろされる。棺桶の中に青年の一人が這入り、泣き叫ぶ青年等に担つがれて、棺はゆれながらもと来た瑞安寺に帰って来る。そして葬式の時にする様に、本堂の前を三週し、からだみ行事は総べて終了ということになるのであった。
 青年達は、それから、いつもの宿の家で、一杯やり、だんごもらいのだんごを食べたりして引上げるので、夏の短か夜は東の空が白むことが度び々々あったと云う。
 このように盛大にからだみが行なはれていた頃は、若衆達の踊る盆踊りのうたごえが夜風にのって、遠く、近く、きこえて来たものであつたが、最早や、あゝした雰囲気の情緒ある夜を過すことは出来なくなってしまった。
からだみの発祥はよく判らないと述べましだが、 それ丈けに、古い行事ではなかろうかと思うのです。一説に、椎津小太郎義政、この人は実在したかどうか判らないのですが、椎津城主であったこの人の葬式と云う説もありますが、矛盾があって、どうも私には素直に肯定することが出来ないのです。紙面の都合上詳しく述べることは避けますが、この説は大正期あたりに、たれか云い出して、いわれの判らぬまゝ、通説のようになってしまったらしいのです。
 そうかと云って私にも明確な答は無いのですが、たゞ私には、葬式を出す様な忌はしいことは無いようにと、疫病除けに思はれてならないのです。
 それは、からだみを一年休んだら村に疫病が流行していけなかったと、村のたれでもが知っている伝説が残っているからです。


参考文献
  千葉県教育委員会ホームページ
  「市原の年中行事」市原市教育委員会   昭和40年 3月発行 
  「十年の歩み」  市原市文化財研究会  昭和48年11月発行