『下総三山・七年祭』                                             H22.12.5




七年祭は、丑年と未年の六年毎(数え年で七年毎)に行なわれる祭りで、
千葉市、習志野市、八千代市、船橋市の四市にまたがる寄合祭りである。
直近では2009年11月22日〜23日に行われた。

写真は七年祭風景(船橋市HPより)





参加神社
以前はさらに多くの神社が参加していたといわれるが、現在では次の九つの神社が参加し、それぞれの役割をもっている。
二宮神社  船橋市 三山町    菊田神社  習志野市津田沼町 叔父
子安神社 千葉市花見川区畑町 母    大原大宮神社 習志野市実籾町 叔母
こまもり
子守神社
千葉市花見川区幕張町  子守     時平神社 八千代市萱田町・
 大和田町(交互に参加)
長男
 三代王神社 千葉市花見川区武石町  産婆   高津比盗_社 八千代市高津町  娘
        八王子神社 船橋市古和釜町  末息子
このほか口伝によると姉崎神社(市原市姉崎 大姉)が大祭に参加したという。

七年祭の流れ
・小祭 (湯立祭 9月13日)
かつては二宮神社で湯立の神事が行われ、神がかりになった神主が大祭の日を告げていたが、現在は関係者により大祭の日取りが決められている。
今では湯立は行われておらず、二宮神社の神輿渡御が三山地区で行われる。 

禊式(大祭前日)
祭りの関係者全員が鷺沼の海岸で全裸で禊を行っていたが、海が埋めたてられた現在は習志野市の旧鷺沼で汲み置いた海水で禊を行っている。

・大祭(11月)
安産御例大祭
8神社による二宮神社への参拝が行われ、各神社の神輿が二宮神社から600メートルほど離れた神揃場(かみそろいば)に正午ごろから集まってきて、順番に二宮神社へ向かい、境内に入って昇殿する。神揃場は普段は駐車場になっている空き地だが、当日は周囲に竹矢来が組まれ、二宮と子安の神輿を置く御塚(オツカ)前に7つのオツカが一直線上に造られている。(写真は神揃場と隣立する二宮神社本祭用地の碑)
二宮神社に各神社の神輿の参拝が終わると、菊田・八王子・時平・大原大宮の4社の神輿は自分の神社に還御するが、三代王・子安・二宮の神輿は幕張の磯出式に向かう。
このとき子守の神輿は、まっ先に幕張に帰って三社の神輿を迎えて磯出式に参加する。高津比唐フ神輿は二宮の神輿が磯出式に行くのを三山の村境で見送ってから自分の神社に還御する。




磯出式

深夜から次の日の未明にかけて二宮・子安・子守・三代王神社により行われる。
千葉市の旧幕張海岸に竹矢来で囲まれた式場につくられたオツカ4社の神輿が安置され、幼い男女がハマグリを交換する産屋(うぶや)の神事が行われる。この神事は限られたもののみで行われ大会関係者といえども式場への入場は禁止されている。
夜明頃に4社は退場する。二宮と子安の神輿は別れの挨拶をして還御するが、二宮の神輿は途中の久々田と津田沼の間の神ノ台(カンノダイ:習志野市津田沼6丁目  左写真)に立ち寄り、祭りの終了を知らせる神事を行う。 この終了を告げる神事は大姉神の姉崎神社への報告ともいわれ、また古くは互いに狼煙をあげたともいわれている。


『三山の祭りは後が先』
「磯出式」は安産を祈願する意味を持つ祭事であるが、七年祭では先に「安産御例大祭」行うので『三山の祭りは後が先』と言い習わされている。

起源(諸説あるが・・)
文安二年(1445)馬加城々主馬加陸奥守康胤(やすたね)は、奥方が妊娠した時、十一ヵ月が過ぎても出産の兆候がないのを案じて、二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社の各神主を馬加村の磯部に呼び寄せ、産屋を設けて出産祈祷を執行させた(磯出式)ところ、 ほどなく奥方は無事男児を出産した。 康胤初め家臣、領民らは大いに喜び、安産の御礼として二宮神社に大祭を挙行した。(安産御礼大祭) のちにこの二つを一つに合わせ執行するようになった。
いつ頃からか参加する神社数も増え、それぞれの役割もった現在の形になった。

姉崎神社との関連
 七年祭に参加する神社の多くが「藤原時平の末裔・師経が左遷され下総へ向うおり、海が荒れて久々田の海岸にたどり着き、さらに深山(三山)の地に定住して時平を祭祀した。」との伝承を持っている。(二宮神社、菊田神社、高津比盗_社、時平神社) また、海上ではぐれ、姉ヶ崎に上陸した姉に無事を伝えるために火を焚いたという故事も言い添えられ、その場所が鷺沼の「神ノ台(カンノダイ)」であるとされている。
 一方の姉崎には、「姉崎」の地名の起源として「治承年間に平清盛によって藤原時平の苗裔藤原師経が下総へ流され、このときー行の乗った船のうち、師経の姉君の船が押し流されて、上総の姉崎に着いた。師経は無事下総に着いたが、姉君の身の上を案じ、里人に命じて付近の茅を集めて合図の蜂火をあげた。その焔は数里の遠方からも望見されたが、ついに姉君の消息はわからなかったので、一同大いに心痛した。いまの姉ヶ崎の地名はここにおこつた。」との説もある (千葉県史)。
 
 【資料館より】
 *藤原氏が両者を結び付けるキィワードではあるが、七年祭との関連は不明あり、また姉崎神社でも狼煙をあげたとので言い伝えの調査もこれからです。
  情報をお持ちの方はご教示のほど、お願い致します。

添付資料
 「磯出式」に参加する各神社の御由緒は ==> ここから 
 

 参考文献

    「三山の七年祭<記録編>」 船橋市教育委員会  昭和50年3月発行
    「関東地方の祭り・行事2 埼玉・千葉」  埼玉県教育委員会・千葉県教育委員会 2008年11月発行
    「市原の地名」  田中喜作氏  (市原地方史研究 第一八号) 
    「御由緒」  二宮神社、子安神社、子守神社、三代王神社