磯出式神社由緒                                             H22.12.5

 
各神社で配布されています御由緒書を掲示しています。

二宮神社由緒
子安神社由緒
子守神社由緒
三代王神社由緒


                                  二宮神社

                 

   二宮神社御由緒

一、御 祭 神
  建速須佐之男命、櫛稲田比売命、大國主命、藤原時平命、大雀命、誉田別命。

一、御 神 寶
  石鉾、鉾、古代御面。

一、由 緒
 1当社の儀は弘仁年間嵯峨天皇の勅創に係り古来寒川神社二宮大明神と聯称す。
  往昔より近郷二十三ケ村の総鎮守にして、丑未七年日毎に二宮神杜外八神杜の神輿を会し大祭を執行す。
 2治承四年藤原師経当国へ左遷の際、同人及神官倶々協議して左大臣藤原時平公を本社の相殿に合祀す。
 3慶長年中東照宮上総国東金へ御成りの砌り御参詣の際御墨印寄せられ、二代将軍秀忠公より御朱印御寄附、三代将軍家光公より御朱印を以て下総国千葉郡三山村に於て御神領拾石御奉献、其の後貞享元年三月十一日東照宮より四代将軍家綱公まで神官宅火災の砌り御朱印焼失に付其の砌寺杜奉行へ御訴へ申上げ御吟昧相済翌貞享二年六月十四日五代将軍綱吉公より御朱印前々の通り御社領御寄附あり。 (現在の御社殿は安永年間再造営せるものなり)
 4 明治四十三年十二月十六日千葉郡二宮村三山字北ノ海道一九九番、無格社若宮八幡神社(大雀命)、同所字西ノ庭四四、二宮神社攝社阿波八幡大神(誉田別尊)御本社へ合祀す。

一、例祭、大祭
  例祭   十月十六日
  大祭   丑未七年目十一月(日は未定) 九月十三日湯立祭に決定する。

一、大祭起源及沿革
  当社は今を去る五百有余年前、馬加村(千葉市馬加町)の城主馬加陸奥守康胤奥方懐妊十一ケ月に到るも何等出度の模様なきをいたく憂ひ、三山村二宮神社、畑村子安神杜、馬加村子守神杜、武石村三代王神社の各神主に命じて馬加村の磯辺に地を相会し安産御祈祷の祭禮たる産屋の古式を執行せしむ。(磯出祭は是なり) さる程に奥方安産あり然も男子御出生の事とて康胤初め家臣領民等殊の外喜び此神徳に報いんと総社二宮神社に安産御禮の大祭を執行する様領内村々に告げ知らせ、康胤は此度出生せる若殿を伴ひ家臣一同を引連れいとも麗やかなる大祭を挙げたり。(是を安産御禮大祭と云ふ)是ぞ三山大祭の濫觴にして後年此二つの祭を一つに合せて同時に式事を執行する様になりたり。此処に「三山の祭後が先き」と云ふ伝説生じたり。是より庶人亦其霊徳に浴せんと安産の祈願をなす者次第に多きを加へ今や関東一の御産の神として有名となり、この先例を丑年未年の七ケ年毎に踏襲し本社の外八神社、三山二宮神杜、畑子安神社、馬加子守神社、武石三代王神社、久々田菊田神社、高津高津比盗_社、実籾大原神社、大和田時平神社、古和釜八王子神社の神輿三山神揃場に集ひ其れより行列を以て御本社に参進し大祭を執行す。当夜は馬加村磯部に四基の神輿相会し安産御祈祷の式事を行ふ。この夜畑村に必ず男女の出産ありて後七年目の犬祭には稚児となり参列する。

                               船橋市三山
                                    二宮神杜々 務所

                                                                
 
    子安神社
 
                 
   

   子 安 神 社 御 由 緒
                            〒262-0018 千葉市花見川区畑町二〇九三番地
                                     TEL 〇四三−二七一−七六五二

神  祭   
  奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)(子授、子宝、安産子育、縁結び神)島根県松江市八重垣神社が本宮です。

神  歴
  建速素蓋鳴命(たけはやすさのをのみこと)(天照皇大神の弟神)の婦神であります。親神様は足名推神(あしなづちのかみ)(父)手名推神(てなづちのかみ)(母)です。 神話に伝へる出雲(いずも)の簸(ひ)の川上に於いて悪神八岐(やまた)の大蛇退治(おろちたいじ)のとき残されました八人目の姫神であります。

祭  日
  元旦祭(一月一日)節分祭(二月)湯立神楽祭(二月二十八日)安産子育講社崇敬祭(五月七日)例祭(十月十七日)七年目式年大祭(丑(うし)年未(ひつじ)年十一月)七五三祭(十一月・十二月十五日)

創  立
  桓武天皇延暦年間この辺を支配する豪族により作られた子安古墳のお山を御神体として五穀豊穣の神として創立される。(一二一五年前)第六十代醍醐天皇の延喜年間茨城県稲敷郡稲田大社より奇稲田姫命を勧請(かんじょう)し子安大明神となる。(一〇九六年前)

効  験
  左大臣藤原時平公深く尊敬し其の霊験著しく安産守護神として衆人の尊敬益々加わる後に鎮守府将軍村岡陸奥守(むつのかみ)平良文八代の孫千葉之介平之常胤公信仰尠(すくな)からず建久三年(壬子(みずのえね))公の奥方懐胎し生月(うみつき)に至るも監産(りんざん)の気色(けしょく)なかりしかば家臣長田八郎時忠氏を旗村(畑)なる子安大明神に安産祈願のため参籠しましたところ幕張の海岸に於いて男子を安産しました。よって翌建久四年(癸牛年(みずのとうし))公は巨資を投じて社殿を造営し、且(かつ)祭典(さいてん)を執行する。(建久四年九月十七日の棟札有り)其の霊験の著しきに衆人の信仰弥益々に加わり氏子一同は申すに及ばず附近の村落多喜野井、三山、藤崎、実籾、長作、畑、武石、幕張、鷺沼、久久田、谷津、上飯山満(はざま)、八木ケ谷、大穴、楠谷山、古和釜、坪井、麦丸、萱田、大和田、萱田上宿、高津、柏井の氏子二十三ケ村の人々相集ひ盛大なる大祭典を挙行せしと云う。(後鳥羽天皇の頼朝軍時代八〇三年前式年大祭の始まりと云う。)

七年目式年大祭
  現在の様な形に発展したのは文安二年(後花園天皇の御代)干葉介二十一代幕張城主平康胤公の奥方懐妊に際し幕張海岸にて磯出安産祈願祭をしたところ無事男子誕生したるに感謝し大祭典を行ふ。(五五四年前)

子授安産大祭(磯出式)
  更に江戸中期徳川八代将軍吉宗公(亨保十二年)の頃より七年日毎に幕張磯辺に於いて子授安産大祭が行われるようになる。(二八二年前)今尚一層の参詣者有り大祭典が執り行われる。

御湯立神楽祭
  毎年二月二十八日春祭りを行ひ当日午後五時を期し大釜に熱湯を沸かし湯笹を以って参拝客に振かけ無病息 災の湯立の神事を行ひます。 笹のエキスの御湯は血行をよくする清浄な飲料として戴きます

栄  誉
  宮中御慶事の度毎に御安産の祈願祭を奉営し御岩田帯として白羽二重一反を献上御嘉納の栄を辱(かたじけの)ふす。
        宮中御沙汰書写略記
一、大正十四年十一月十九日東宮太夫伯爵     珍田 捨巳殿
   皇太子良子妃殿下の御安産を祈り奉る。      (照宮茂子内親王誕生)
一、昭和四年九月宮内大臣官房庶務課長男爵    白根 松介殿
   良子皇后陛下の御安産を祈り奉る。         (孝宮和子和子内親王誕生)
一、昭和八年十二月七日宮内大臣官房総務課長  鹿児島虎雄殿
   良子皇后陛下の御安産を祈り奉る。        継宮明仁親王誕生(今上天皇)
一、昭和十三年十二月五日東宮御所         橋本侍従長殿
   良子皇后陛下の御安産を祈り奉る。       (清宮貴子内親王誕生>
一、昭和三十五年一月二十日東宮御所       牧野女官長殿
   皇太子美智子妃殿下の御安産を祈り奉る。   浩宮徳仁親王誕生(皇太子殿下)
一、昭和四十年十月二十五日東宮御所       牧野女官長殿
  皇太子美智子妃殿下の御安産を祈り奉る。   礼宮文仁親王誕生(秋篠宮殿下)

御岩田帯の由来
  祝田帯(いわいだおび)又は結肌帯(ゆうはだおび)ともいう。母子の安泰と安産を祈請するものであります。御祭神奇稲田姫命監産に際し御親の神より岩田帯と称して白布(さらし)を祈願し御安産守護として授けし由来。犬は御産が非常に軽いので妊婦五ヶ月日の犬の日に因(ちな)んで着帯する。または大安吉日に行ひます。安産守は腹帯にとめておくようにします。御安産後は神社へ御返納御礼参りをします。

初 宮 諸
  神社初宮詣は、男子四十二日、女子三十三日目に御参りします。御子様の御健康と厄除開運を析ります。

     
    平 成 十 年
                                            畑子安神社社務所

                                                                
     子守神社

               

    子守(こまもり)神社由緒書

【鎮座地】
 
  千葉県千葉市花見川区幕張町二丁目九九〇番地
    JR幕張駅・JR幕張本郷駅・京成幕張本郷駅 各駅より徒歩二十分
    京成幕張駅より徒歩十八分

【祭神】 
   建速素蓋鳴命(たけはやすさのをのみこと)
   奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
   大己貴命(おおなむちのみこと)(大国主命(おおくにぬしのみこと))

【神 木】 
   大銀杏(境内向かって左手 推定二百〜二百五十年 雄木)

【由緒】 
  当神社の創設については不明であるが、最古の記録には次のよに書かれている。千葉介平常胤(ちばのすけたいらのつねたね)の四男・大須賀四郎平胤信(たねのぶ)が、父よりこの幕張の地を譲り受けて城を築いた。建久四年(一一九三)五月、 源頼朝の命により富士の御狩場に赴く際に当社へ析願し、良い成果が得られた。その御礼として社殿を造営し、胤信の次男・中須加神太夫平正胤(まさたね)をその社司神家とし、武運長久(ぶうんちょうきゅう)、五穀豊穣(ごこくほうじょう)、郷中家内安全並びに氏子家内安全諸析願をさせた。当初、馬加(まか)城近くの本郷須賀の元社逢坂に鎮座していたが、氏子が浜辺へ移住すると共に、永正五年(一五 〇八)現在の地に遷宮した。当社名は建速素蓋鳴命(=素加湯山主弥那佐呂彦八嶋篠尊(すかゆやまぬしみなさろひこやしましののみこと))の名から「素加天王(すかてんのう)神社」とされていた。その後、磯出神事の際に祭馬が数多く集まったことから「馬加神社」、磯出神事の役割から「子守(こまもり)神社」となったようである。

【式年連合大祭(七年大祭)について】
  「三山の祭り」と通称される当祭事は、幕張で行う磯出安産神事と三山(船橋市三山)の二宮神杜への御礼参り神事の二つから成り立っている。文安二年(一四四五)千葉介十七代馬加城々主・陸奥守平康胤(やすたね)は、奥方が懐妊した時、十一ヵ月が過ぎ ても出産の兆候がないのを案じ、九月十六日に子守神社(幕張)二宮神社(三山)子安神社(畑)三代王神社(武石)の各神主を馬加の磯辺に呼び寄せ、産屋を設けて出産析祷を執行させたところ、その夜、海中より龍燈が揚がり、子守神社へ飛来し、翌日、七つ時(午前四時頃)に無事男児を出産した。康胤初め家臣共は大いにこれを喜び、御礼として三山の地に四社を集めて祭りを挙行した。更に享保十二年(一七二七)からこの安産神事自体も祭事として同時に執行するようになった。いつの頃からか、時平(ときひら)神社(大和田・萱田(かやた))八王子神社(古和釜)高津比(たかつひめ)神社(高津)菊田神社(津田沼)大原大宮神社(実籾)の五社が新たに加わり、それぞれの役割を持った現在の形になった。 このように現在は二宮神社へ九社が集まる御礼参りを先に行い、その後、幕張に四社が集まる磯出安産神事を行っている。
  <役割>
    二宮神社(父親)  子安神社(母親)  子守神社(子守り)   三代王神社(産婆)
    時平神社(息子)  八王子神社(息子) 高津比盗_社(娘)  菊田神社(伯父)   大原大宮神杜(伯母)

【祭 事】
  元 旦 祭  一 月   一日
  節 分 祭  二 月   三日
  神 楽 祭  四 月   三日
  五月守護祭 四 月   三十日(御札頒布 四月下旬)
  九月守護祭 八 月 三十一日(御札頒布 八月下旬)
  例   祭   九 月  十五日〜十七日(稲荷様頒布 九月中旬)
                 十五・十七日 神輿による町内渡御
  七五三 詣  十一月   一日〜三十日
  年越大祓式 十二月三十一日(御札頒布 十二月下旬)
  月 次 祭  毎 月    一日・十五日
 ◆式年連合大祭 丑年と未年の十一月三日の前後 二日間
                                        千葉市花見川区幕張町二丁目九八九番地
                                          子守神社社務所  宮司 中須賀 邦徳
                                             電話 〇四三−二七二−一三五一
                                                 〇四三−二七一−二九八四
 
                                                                 
    三代王神社
                


    三代王(さんだいおう)神社
                                   社務所   千葉市花見川区武石町一の一 五九
                                          電話  (二七一)八三七六
鎮座地 
  千葉市花見川区武石町一丁目四番地

御祭神
  天種子命(あめのたねこのみこと) (天児屋根命の孫、中臣氏の祖)

例  祭
  二月十一日(春季大祭  御奉射(おびしゃ)神事)  十月二十日(秋季例大祭)

式年祭 
  丑年・未年に斎行される「三山の七年祭り並びに磯出式」に参加(神輿渡御)


由  緒
   社伝によると、千葉常胤の三男・胤盛が、武石城に居城してから三十一年後、鎌倉時代の建仁二年(一二〇二)に、郷中安全の守護神として明神神社を御創建したのが当社の始まりとされている。文安二年(一四四五)馬加康胤が馬加城に在城のとき、奥方のお産に際して、当社の明神が夢枕に立って『我は安産の守護神なり守護すべし』と告げ奥方は、たちまち安産したと伝承しており、翌、文安三年、神恩に感謝して本社を造営、康胤の家臣小川采女を社人として祭司にあてた。天正年間に社殿修築。更に、享保十七年(一七三二)に社殿を修築し、馬加の神主、中台丹後平勝重が古例に依り遷宮の祭式を執行した。創建以来長く武石明神と称されていたが、寛政八年(一七九六)には、三代王神社として現在の社名が称されている。 (改称年諸説有り、一五〇一年説が有力と考えられる)文政八年正月十七日(一八二五)に今の本殿が修築されている。尚、現在の神輿は天保六年(一八三五)に再造され、逐次修繕されている。

境内社
  氏子の人々の信仰する神々が境内に祀られている。
  金刀比羅神社  三峯神社   古峯神社   榛名神社  秋葉神社   疱瘡神社
  八坂神社     浅間神社   小御嶽神社 道祖神社  稲荷神社(屋敷神)

境外社
  武石神社     猿田神社   愛宕神社   羽衣神社