![]() 山谷・霊光寺の庚申塔 青面金剛(正徳三年) |
路傍、神社等で見かける「庚申様」「庚申塔」とは何でしょうか。。 「庚申」とは毎日に十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を割り当て60日に一度やってくる日です。(詳細は『干支』のページ) 「庚申」は陰陽五行説(木火土金水)では「庚」も「申」も「金」に属するため、人心が冷酷になるこの日は「刀傷沙汰が起きやすい」「この日に子供を作ると泥棒になる」といわれた忌日とされています。 「庚申塔」は中国の道教にある「三尸(さんし)説」から「庚申待(こうしんまち)」とか「宵庚申(よいこうしん)」といわれる行事が行われ、その供養塔として建てられたものです。 「三尸説」とは、 人の体に住んでいる「三尸の虫」が庚申の日の夜、人が寝ている間に天に昇り天帝にその人の悪行を告げるので、そのためその人の寿命を縮めるというものです。この「三尸の虫」を天に昇らせないため、その晩は寝ないで一夜を過ごす行事が行われ、この行事を「庚申待」「宵庚申」などと呼んでいます(以下「庚申待」)。 この行事の最初の結衆(けっしゅう:目的をもって人々があつまること)や一定期間の区切り等を記念して建てられてのが「庚申塔」です。 庚申塔は文字だけのものもありますが、多くは恐ろしい形相をした「青面金剛(しょうめんこんごう)」が鬼を踏んでたち、日月、鶏と三猿が刻まれています。 しかし、庚申塔の本尊が正面金剛になったのは江戸時代初期からで、以前は仏の種子字や猿だけのものがあったようです。 庚申塔の変遷を「庚申塔の研究」(清水長輝著 名著出版 昭和63年発刊)より、大雑把に紹介します。 |
![]() 椎津・八坂神社の庚申塔 三猿(延宝二年) |
日本では、平安時代の初期に庚申の日の行事が宮中や貴族の間で行われたのが最初とされ、庚申の日の夜は歌合せや、碁やすごろくをして楽しい一夜を過ごし、これを「守庚申(まもりこうしん)」と言っていたようです。 民間には室町時代に広まり、そのやりかたは仏教的なものとなり、如来菩薩などを拝み経文・真言を唱え、酒や雑談で一夜を明かすようになります。 この庚申待は、江戸時代に各地で盛んにおこなわれるようになり、このかたちが現代まで続いたようです。 民間で行われるようになり、最初の「庚申待」や一定期間の庚申待を無事行ったのを記念して庚申塔が造塔されるようになりました。 室町時代には当時供養塔としててられていた「板婢」と結びつき、庚申供養の文字が板碑に刻まれたり、比叡山の天台宗の守り神・山王の使いの猿と庚申のサルとの関連から山王と庚申が習合して、山王二十一社本地仏種子字を刻んだ庚申供養の板碑が現れるなど、のちの庚申塔隆盛の母体がこの時期に造られました。 安土桃山時代になると急速に板碑は消滅し、それに伴い庚申塔も造塔されなくなりました。 江戸時代初期に種子字を小さく刻む文字主体の板碑型の庚申塔があらわれ、次いで青面金剛の名や猿が登場し、少し遅れて三猿も現れました。これらは真言・天台などの密教系の創案で庚申塔発展に大きく貢献しました。 寛文年間になり青面金剛像を本尊とする庚申塔が現れて普及しはじめ、元祿を頂点として青面金剛の庚申塔が最盛期をもたらしました。 そのご造塔は仏家の手を離れ、猿田彦が登場、庚申塔の道標が作られるようになり、末期には庚申塔の文字だけが刻まれたものが多くなっていきました。 江戸末期までは多く造塔された庚申塔ですが、明治初期の廃仏思想や生活環境の変化に伴い減少して行きました。 |