椎津浦の変遷

 
 








 大正初期の椎津川河口 富士山が美しい
椎津八坂神社の境内に「漁業権放棄の記念碑」「漁業権境界標」「椎津漁港竣工記念碑」があります。
漁業権放棄は海が埋め立てられ漁業権を放棄したときのものですが、境界標、漁港竣工記念碑はどういう経緯で境内にあるのかを、地元の長老である古川萬次氏(84才)にお聞きしました。 お話によると、
「境川(現椎津川)には椎津の方々により、その流れを変えた歴史があり、これらはその時に立てられたもので、海の埋め立てに伴い神社境内に移したのではないか。 
また、境内にある「水神宮」の碑と金毘羅宮の「手水鉢」は、今は椎津川となってしまった椎津浦の海岸に祀られていたものを、これらも埋め立てのため境内に移設したもの。椎津浦に祀られる前は、瑞安寺前の坂を少し上った所に祀られていた。」
とのことでした。
このお話をもとに境川河口の変遷を紹介します。 


漁業権放棄 竣工記念碑 境界標    水神宮    手水鉢

 
椎津浦(昭和21年)
海の中の白い部分は浅瀬
椎津の海は境川に運ばれた土砂により遠浅でした。
ここでは魚の他、蛤、浅利、バカガイ等が大量に採れ、また、昭和6年頃よりノリの養殖が盛んに行われました.
昭和初期の海岸には水神宮が祀られていました。
潮が引いた海岸は子供たちの格好の遊び場でした。
     
 明治期の蛤採り  水神宮の鳥居(昭和初期)  海岸での野球(昭和30年頃)
 
椎津浦の変遷


昭和21年頃 養殖していた海苔の色付きが悪く茶色になってしまうことが発生してきた。
これは、椎津浦に真水が入らなく塩分が高くなったためと考えられ、それまで姉崎浦に向かって開いていた境川の河口を椎津浦側に変える工事が昭和27〜28年頃に行われた。
工事は海苔養殖者と椎津青年団が手弁当で、毎日50〜60人位の人数が交代で作業にあたった。
川幅15メートル位、長さは約200メートル、人手で掘削し、川にコンクリート板を立て、その上に掘った土をモッコで運び、土手を築いた。
この工事には菅野儀作氏(八幡・参議院議員)、相川久雄氏(五井・県会議員)らの働きで県から補償金が出て川面はコンクリート板をまかなった。
海側から掘り進め開通までに約一年かかった。
*漁業権境界標(昭和29年)、椎津漁港竣工記念碑(昭和31年)はこの工事終了時に立てられたのではないか


写真は流れが変わったことにより離れた土地を結ぶ橋ができた。(昭和36年写真の矢印)
右はその橋の写真(昭和31年)
川をコンクリート板で仕切り、その上に土手を築いていたことが分かる。

水神宮、金毘羅宮は瑞安寺の坂から〇印の場所に移された。(昭和21、36年の写真)
*移設年は水神宮碑にある昭和10年か





昭和36年頃からの海の埋め立てにより、椎津の海は無くなり今の景観となったが、境川の流れは工事当時のまま残った。
このとき水神宮などが神社境内へ移設された。
現在、飛び地となった川向こう土地は姉崎に編入され今では「西姉崎」番地となり、飛び地を結んでいた橋も無くなってしまった。