海の記録 

はまぐりの碑 (五井・臨海運動公園入口)
京葉臨海工業地帯として、石油コンビナートの煙突が林立する地帯は東北は八幡より西南姉崎にかけて太古より内湾漁場として魚介類の豊庫であり私達の祖先は網を曳いて魚を捕え、貝類を掘って生活の資とし、この無限の海の幸の中に生きて来たのであります。
特に近年海苔の養殖採取はこの海岸地帯の重要な産業としてその生産数量、品質ともに広く国内外にその名を知られ、海辺沖合いに延々櫛比する海苔しびに無数の小舟が群れ集い、香高い海苔を採取する状は晩秋から冬にかけて此の地方独特の風物詩であり、又季節にはこの遠浅の海で海水浴や潮干狩又簀立を楽しむ人達が遠くバスを連ねて緒と訪れ、内湾の観光地として賑い栄えて来たものであります。
戦後我が国の目ざましい経済成長に伴い本県の方策としてこの地の工業開発が計画実施に移され昭和三十二年より同三十七年に亘って漁業補償の交渉が、県と漁民との間に続けられ地区海に遂次妥結した結果関係漁民三,ニ八四名は漁業権を放棄する事になり、海岸より沖合い約四粁に亘る、面積ニ,一四ニ万平方米は埋立てられて工場用地に造成される事となり、情緒豊かな往時の海辺は一変して近代産業の要地となり、関係漁民の生活も又大きく転換されることヽなりました。
現代科学の粋を集めた此の工場群の建物の下には今尚生きながら葬られた幾千万の成貝稚貝があり、この供養を通じて併せてこの海に生活して来た私達の先祖の霊を慰めんとするものであります。

               昭和四十四年八月
                   市原市長 鈴木貞一 撰


『生活の海』があったことを残す碑が、市内に建立されています。
これらには、その地域が海苔養殖を中心とした漁業で栄えてきましたが、県の発展のため生業の基盤であった海を手放なさざるを得なかった状況などが刻まれています。

           

掲載碑 一覧
記念碑(五井・大宮神社境内)   漁場開放記念碑(岩崎・稲荷神社境内) 記念碑(岩崎・稲荷神社境内) 
 記念碑(松ヶ島・養老神社境内)   海苔種付高サ基準標(松ヶ島・養老神社境内)  齋藤海苔翁之碑(松ヶ島・養老神社境内)
 顕彰碑(青柳・八坂神社境内)  海苔篊功業記(青柳・八坂神社境内)  施行記念碑(千種・権現森公園内)
 記念碑(今津朝山・鷲神社境内)  御神輿新調記念碑(今津朝山・春日神社境内)  記念碑(姉崎・妙経寺境内)
 八反甫の碑(姉崎・ふじね橋脇)  記念碑(椎津・八坂神社境内)  


    記念碑(五井・大宮神社境内
     千葉県知事柴田等題額
五井浦の漁業の沿革は極めて古く寶歴二年以来五井村川岸區住人福島甚兵衛なるもの幕府御臺所へ魚貝類を差納の其の頃これを漁業運上と云い當五井浦及近傍の漁民の漁獲物の幾分を徴収して幕府に納付し来つた其の後天保年間領主有馬侯の頃度々境界争等もあり漁業法も不規律なりしが明治二十六年四月に五井漁業組合規約を設け相川小太郎氏組合総代として知事の認可を受け始めて五井漁業組合を創設越えて明治三十五年十二月漁業法改正により規約を修正小倉幸八氏外二十一名の發起により五井浦漁業組合が成立され次いで明治四十二年十一月専用漁業権を許可せられこの年より建をなし海苔養殖業を創設爾来幾変遷組合員はよくその傳統を継承して漁業の振興發展に努力し遂に組合員九百八十二名享有漁業権面積百六拾参萬坪その生産額は海苔魚貝を主として年間海苔漁業貮億参千萬圓餘 貝類漁業六千貮百萬圓餘魚類壱千貮百萬圓餘総計参億壱千餘萬圓に及び内湾に於ける樞要な地位を占むるに至つたが
昭和三十三年十二月郷土の發展のため県の提唱した京葉工業地帯五井地區造成に協力一部養老川々北四拾萬坪の埋立に同意
ここに父祖傳来の漁場をこれに設営された共同漁業區画漁業権を放棄することヽなり組合もまた六十九年に亘る傳統と歴史を閉じ昭和三十七年七月三十一日をもつて解散することヽなつた
よつてここに幾世代に亘る歴史と父祖の業を顕彰するため記念碑を建立併せて今日迄の操業の安全と豊漁の神徳に感謝し境内に鳥居一基を奉納以て組合解散の祈念とする
      五井町五井漁業共同組合長岡本徳蔵撰文三枝康也書

昭和三十七年九月吉日建立
                                                              
       漁場開放記念碑(岩崎・稲荷神社境内)
           岩崎漁師組合
京葉工業地帯造成のため父祖伝来
の漁場を開放するに決し
昭和三十六
年二月二十日千葉県と交渉妥結す
岩崎漁師組合員一同は郷土の発展
隆盛を念願し記念として之を建てる
     昭和三十六年五月吉日
          嶋田繁太郎書                                                              
記念碑(岩崎・稲荷神社境内)
     千葉県知事友納武人題書
千葉県では近代工業を導入して産業構造の高度化を図り県民所得の増大の目的をもって昭和三十二年から大規模の臨海工業地帯の造成事業に着手した
これは東京内湾地域の遠浅である海面を埋立ることによって新たに土地を造る事業でそれには我々祖先伝来の生業としてきた海苔の漁場を先ず必要としたのである
我々は県の強い要望にこたえて工業地帯の造成のため
昭和三十六年三月意を決して漁場を放棄することにした。これがとりもなおさず我が郷土の発展のためを考え県に協力した
さらに県では我が岩崎地区の農地入地一町歩について埋立計画による道路鉄道等の公共用地として譲渡の交渉をうけた。この土地は字塩場添一本松卯之□と称し我が祖先が明治の初期に開拓の鍬をいれて其の後血と汗を流して海岸地帯特有の砂地を美田化し昭和二十一年農地解放により地主より耕作者に譲渡せられこの内塩場添六町歩は小宮久の所有地であった
近年耕種改善により益々増収が期待される折これまた大乗的見地に立ち昭和三十八年四月我々地主四十八名は県に売渡すことに同意した
ここに県に協力して土地を譲渡したのを記念してこの碑を建立した
        昭和三十八年十二月
                地主一同                                                             
 

 
 記念碑(松ヶ島・養老神社境内)
       題字 千葉県知事 柴田 等
 享保の頃の評定所の裁許によればそれ以前から松ヶ丘が漁業権を取得しておつたのは明らかであるが私達の先人父祖は居ながらにして漁業権を確保し継承したものではなかつた 塩場境設定の紛争浦方出入は頻発した 或は精魂を傾けた附洲の新開を一朝にして暴風雨の為に荒廃に帰したことも一再ではなかつた窮乏の極 辛苦の新開地をそこばくの額で他村へ賣却し地先を狭隘化したこともあつた 屡次の訴訟暴力事件を惹起して全村が不安と騒憂とに陥つた農業用水の通水と肥料用蚶子採取との交換を行い、産業の振興と生活権の擁護とに懸命の叡智と努力とを傾けた想像に絶する困難と憔躁とのなかに生業を続けなければならなかつた然しながら当村の漁業権は今日の漁業制度に及んで安定した偶々第二次世界大戦後重化學工業時代を迎えて
内湾は臨海工業地帯として変容発展することとなりわが漁場はこの先覺的地域として昭和三十七年二月二日組合員一同父祖伝承の漁場を放棄した 茲に父祖の遺業を称えると供に私達のなれ親しんだ海の生活に惜別の情堪え難く碑を建てて記念とする
      昭和三十七年三月                 撰文 千葉県議会議員 相川久雄


裏面
水産額昭和三十六年度
 海苔養殖棚數  一千二百二十棚       乾海苔枚數 五百三十六万八千余枚    仝 代金 三千七百三十万円
 貝類水揚樽數  一万二千六百六十余樽    仝  貫數 五万六百五十余貫      仝  代金 七百五万円
 沖漁水揚代金   百三十万円
 區画漁場面積   十三万坪
補償総額    四億五千六百五十万円
 内訳      海苔養殖 三億七千三百万円   貝類養殖 七千五十万円   沖漁 一千三百万円

      
以下 歴代組合長名、組合員名(省略)                                                          
 

海苔種付高サ基準標(松ヶ島・養老神社境内) = 六段線標柱
昭和十一年松ヶ島漁業協同組合は、海苔種の多く付高サ六段線を発見した、同十五年この基準線を市原郡内八漁場にたてた。以後六段線を齊藤ラインと稱して広く種付の基準になった。


齋藤海苔翁之碑(松ヶ島・養老神社境内)
齋藤久雄翁ハ父榮太郎母こ登ノ長男トシテ明治十九年十一月當地ニ生マレ学業ヲ終エテ祖父ノ後ヲ嗣ギ農業ヲ營ム傍ラ松ヶ島漁業組合ノ事務ヲ掌ツテ組合員ノ信頼ヲ博シ昭和六年四月理事トナルヤ家業ヲ捨テ組合ノ運営ニ専念シ昭和九年四月推サレテ組合長ニ就任スルニ及ビ益々組合ノ興隆ニ意ヲ注ギ生産ノ増強ヲ圖ツタ 
即チ同年七月組合内ニ研究部ヲ結成シ又試驗漁場ヲ設ケテ業者自ラ研鑚伸展スルノ途ヲ拓キ組合員各自ノ技術向上ニ努メ潮間觀測ヲ勵行スルト供ニ網篊建込ミノ適期適層ヲ究明スル實驗的研究ヲ行ナイ昭和十一年ニ所期ノ目的ヲ達成シテ網篊養殖ノ基礎ヲ確立シタ 是ニ於テ漁場ニ潮高標ヲ建設シテ基準ノ段線ヲ公示スルナド斯業ノ發展ニ盡瘁シタコトハ枚舉ニ遑ガナイ
斯シテ養殖技術松ヶ島ニ名声ハ愈々天下ニ著聞スルニ到ツタ現代ノ海苔養殖ガ化学的デアル陰ニハ翁ノ懸命ナ指導力ガ與カツテ居ルコトヲ銘記ゼネバナラヌ
 業界ニ於テ久シキニ亘ル翁ニ勝レタ業績ハ遂ニ顕ワシ昭和二十五年十月全國水産功労者トシテ大日本水産會ノ表彰スル所トナツタ 維レ寔ニ故ナシトシナイ
即チ翁ハ海苔養殖発達史ニ忘ルルコトノ出来ヌ偉大ナ恩人デアル 茲ニ組合員ノ總意ニヨリ海苔王ノ名ヲ呈シテ一碑ヲ建立スル次第ヲ組合員諸氏ニ代リ之ヲ誌ス
                         東京水産大学教授 殖田 三郎
                                松ヶ島漁業協同組合
                                       
顕彰碑(青柳・八坂神社境内)
承祖幾百千年我青柳浦漁業の草創は今これを知る由もないが 歴世孜々経営開発に努めこれに頼って生き且栄えた 近古 その産する新鮮な魚貝は江戸人の嗜好に適い就中ばか貝は 美味を讃えられて名もあをやぎと愛称せられるに至った 下って明治の中葉期海苔養殖の技が傳えられ山下庄蔵氏外 三十七名率先これを営み創成の難苦にたえて遂に養殖漁業 に一生面を開いた これが青柳海苔の濫觴である
明治三十四年漁業法が制定せらるに及び岡本寅吉氏は 二百十四名と共に同三十六年一月二十一日認可を得て青柳 浦漁業組合を創立し初代の組合長となり海苔並に貝類養殖 の漁業権を取得しここに甫めて法人体制が確立した 爾来 四十余年の久しきに亘り山下啓太郎氏小出又作氏山下孫三 郎氏鮎川孝一郎氏岡本良衛氏小出貢氏山下章治氏鮎川六英 氏等歴代の役員並に組合員は幾多の難関災禍を克服して只 管組合の強化と増産とに献身し今日の隆盛の基を築いた 太平洋戦争の結果従来の制度組織はすべて打破改革せられ 新に業業法及び水産業協同組合法が施行されたので金子 久義外二百三十四名は 昭和二十四年十月六日青柳漁業協同組合を設立し共同漁業権並に區画漁業権を享有し新制度の精神に則り養殖経済指導の三事業を併施してこれを運営した 特に東京水産大学教授殖田三郎先生指導の下海苔養殖の科学的研究はよくその生態の核心をつかみ養殖技術に一 新紀元を画し魚貝類を合せて年産額金三億円を数えるに至 り未曾有の黄金時代を現出した
翻って戦争に因り領土の四割五分を失った我國は國土造り の必要に迫られ本縣もこれに順應し東京湾沿岸を埋立てて 京葉工業地帯の造成を計画し我浦亦この圏に入り
昭和三十 五年五月知事より漁業権放棄の要請を受けた 仍て組合長 山下清吉氏はこれが対策委員長となり委員八十二名と共に 折衝を重ねる幾十回深く内外の推移に鑑み郷土の将来を慮 りそのやむを得ざるの状勢を察し同三十六年八月二十六日 臨時総会を開き組合員三百一名断腸の思いをもって漁業権 (共同漁業権百四十六萬坪區画漁業権八十九萬八千九百九 坪)の放棄を決議しその補償漁業権金二十四億八千九百九 十四萬円漁業権外金一億六千七百九十四萬円計金二十六億 五千七百八十八萬円を得て同年九月十五日千葉縣知事柴田 等氏と漁業権を放棄することを協定した この協定に基づ き組合長金子久義は同三十七年八月二十四日漁業権放棄の 手続きを完了し組合はその存立の意義を失ったので同三十 八年五月二十七日総会を開いて解散を決議した
思うに海の価値は単に産業上や経済上のみに止らず多年闊 達進取の気宇を涵養育成した形而上の感化は真に偉大なる ものがありこの滄桑の変に遭つても漁民魂は微動だにせず 既に新しい郷土創成の黎明を迎えようとする態勢下にある は偏にその斉らした賜というべきでこの伝統精神の不滅を 信じ悠久の弥栄を祈ってここに解散する 解散に當り沿革 の概要を勒し先覚歴世の苦労を偲びその功業を顕彰する象 徴としてこの碑を胎す
希くば久遠不言の教化塔として後毘が報本反始のよすがと もならば幸せである

     青柳漁業協同組合長 金子久義額撰並書
  昭和三十八年十月 建立
                                                                  
    海苔篊功業記(青柳・八坂神社境内)
市原郡千種村青柳浦漁業組合頭取山下庄蔵氏副頭取地引英吉氏等外 三十六名は明治三十三年中區内有志の賛同を得て海苔業を起し本 縣技師大村八十八氏の実地調査に依りて其の有望なるを認められたり  是に於て郡長井上定次郎氏に諮り次いで斯業に熟達せる君津郡青堀村 渡邊忠次氏を聘して拮据経営只管成功を期し嘗て組合の貯蓄せし三百 五十金をも之に投じて補助せるも而も徒に不良の結果を見るに過ぎざり き、この時に当りてや賛者の半を失して益々困難を感するに至れりと、 実に諸氏の苦心思ふべきなり、然りと雖ども百折撓まず千挫屈せさる 有志猶ありて共に勗めたりしかば初年に反して頗る好結果を収むるに 至れり、爾来本年に亘る霜辛雪苦は空しからず鳥啼花咲くの盛況に會ふ 冝なた哉頸草は風に耐へ丈夫は難苦に屈せすと諸氏の其の功績大なり といふべし、しかはあれとも惟ふに是獨諸氏の栄誉のみならず亦以て 一村の光耀なり、つとめよや諸氏爰に其の梗概を叙して之を石に勒し 後世につたふ
明治四十年十月
            川上規矩書並篆
               伊藤米年鐫字                                                             
施行記念碑(千種・権現森公園内)
当地はJR五井駅と姉ヶ崎駅の中間に位置し、波静かな東京湾に面し、沖には白帆が浮かび海岸線は白砂青松で海苔養殖や魚介類等を漁獲する半農半漁ののどかな地区でありました。
昭和三十三年に京葉工業地帯の埋立工事が着手され、本地区は昭和三十六年県の要請により先祖伝来の漁業権を放棄しました。
昭和四十二年に工場が操業するや人口増加がすすむと共に地区周辺の無計画な開発が行われるようになり、環境が著しく悪化してきました。
その対策として昭和四十四年島野地区、青柳地区、今津朝山地区、白塚地区の有志により、五井駅と姉ヶ崎駅間に中間駅の誘致を目的として約300ヘクタールの地域に土地区画整理事業を実施すべく準備委員会が発足し、二ヵ年余り奔走しましたが、機が熟さず中止のやむなきに至りました。 昭和四十七年千葉県告示により都市計画道路三・四・三○号(潮見通り)から海側は準工業地域の指定をうけ、同日市街化地域に指定されました。
その後青柳地区、今津朝山地区の有志により、整備基準としては農耕地は現況のままとし、道路築造は砂利道とし、水路は素掘で水門より放流する程度の計画で会合を重ね、現在では考えられないような規模で昭和四十九年八月設立準備委員会が発足し、昭和五十三年五月二日市原市青柳海岸土地区画整理組合が設立認可されました。
施行面積約五十四ヘクタール、平均減歩率二十六%、総事業費約三十六億七千万円。 その後工事は順調に進捗したが第一回保留地処分の頃になって、第二次石油ショックに見舞われ一時資金的にも困難をきたしましたが、近隣公園予定地として設定した保留地を市原市へ売却して急場をしのぎ、景気回復とともに保留地を完売することができました。
事業期間中にはいろいろと紆余曲折もありまして、十七年余りの永きにわたった本組合事業もようやく竣工にこぎつけられましたことは、県ならびに市当局、市連合会、役員、総代地権者の皆様のご指導とご協力の賜と心から感謝申上げる次第であります。
    平成八年十一月建之
       市原市青柳海岸土地区画整理組合                                                         
  記念碑(今津朝山・鷲神社境内)
     千葉県知事友納武人題字
星霜幾百 当地区産業の起源を想起するに吾等の父祖が貝養殖製塩等漁場の開拓に精魂を傾
け地区民自覚の基礎を樹立した事は言を俟たない即ち徳川幕府中期に於て今津塩が江戸にその
名声を博し町民に珍重されたる事は著名の事実である 明治三十年漁業組合法布かれるやいち
早く今津漁業組合を設立し組合員相扶けてその発展に努力 数多の天災地変をのり越え今日
の礎石を築くにいたった 就中組合中興の祖と仰がれる第十二代組合長麻薙重雄氏等は蛤養殖
の大事業を完遂し組合をして泰山の安きにおき更に海苔糸状体の培養を県下に先がけて導入
海苔養殖の一大革命をもたらし内湾漁業に貢けんせる等その業績は枚挙にいとまがない
然るに昭和二十年有史来未曾有の敗戦を迎え国を挙げての混乱の中に工業立国の国家的大施策
のもと
京葉工業地帯造成の計画が進捗するに及び第一次産業としての漁業権放棄を余儀なく
された
 こゝにおいて時の第十五代組合長館石利作氏は組合員と相はかり大局的見地より
漁業権全面放棄のやむなきを決議し遂に父祖伝来の漁場と組合七十余年に亘る伝統と歴史
を閉じ昭和三十九年二月二十日解散に至った
吾等組合員は幾世代に亘る父祖の遺徳を偲ぶと供に漁場に対する惜別の情と豊産の神徳
に感謝をこめて茲に建碑の事を成し永代に記念するものである

  昭和三十九年十月吉日  今津朝山漁業協同組合
                   発起人代表組合長
                    青太幸也撰文 三枝康貤謹書
                                               
御神輿新調記念碑(今津朝山・春日神社境内)
今津朝山漁業組合の漁場開拓は長年の懸案であったが 貝類養殖事業においては戦後、急速に業績も高まり、併せて海苔養殖事業も 沖合進出により昭和三十年頃は近隣の組合を遥かに凌駕し、羨望されるまでに 活況を呈していた。
この頃、今津特有の勇壮な渡御を誇っていた御神輿が老朽化し、修復も限界と なり、安全上からも問題となっておりましたので漁業組合の全盛期に新調すべきであると氏子総代より提唱したところ祭典、区当局等の積極的協賛を得早期入することに決しました。
これに時を同じくして子供御神輿も元建設大臣始関伊平先生のご厚意により、三基が寄贈され、昭和三十三年七月の祭礼には待望の新調御神輿の渡御により盛大に斉行されました。

その後、京葉工業地帯の造成による沿岸の開発も進み海水の汚染に加え、突然異状発生したプランクトンにより、収穫最盛期を迎えていた貝類は悉く死滅し、昭和三十六年国策とは雖も、遂に漁業権を放棄するに至りました。
茲にその当時を想起し、奇しくも、このような好機に恵まれ、各位の協力により、御神輿を新調することが出来得たことは、私共の忘れることの出来ない壮挙とも申すべき思い出であります。 
関係者一同、新時代に於ける敬神の発揚を願い感謝をこめて、この碑を建立して後世に残します。
                  麻薙 實撰文
  平成元年七月吉日 建立
                                                                    
記念碑(姉崎・妙経寺境内)
一乗山妙経寺は、寛正元年(一四六〇年)顕本法華宗日暁上人を開祖として当地に改ざんし、爾来五百四拾有余年の長きにわたり深い緑に包まれた広大な寺域は諸家先祖累代の諸霊を安ずる聖域として檀家の厚い帰依を受け、また地域の人々の安らぎの場所ともなってきた。
 昭和三十四年ころから京葉臨海工業地帯の造成が始まり昭和三十八年には市制が施行され、姉崎地区においても人口が急増し姉ヶ崎駅前広場や道路は混雑が激しくなってきたため、昭和四十七年から更なる土地利用の増進を図るべく「姉崎駅前土地区画整備事業」が約十七ヘクタールの地域を対象に施行され、ほぼその中心に位置する妙経寺の墓地移転が重要事業となり、昭和五十九年妙経寺総代会の議を得て、健全で機能的かつ整然とした墓地をと念じ整備対策委員会を設立し、全檀家からの委任行為に基づき市原市と多面に亘り協議を重ね事業を展開することになった。
ーーー  中 略  ーーー
 以上のような墓地移転、及び改葬事業、並びに庫裡・客殿、鐘楼堂・山門・正面塀・東屋の新築、本堂の改修・参道など諸施設の整備を総工費約二十億円を費やし完成し、平成十二年六月十一日檀家および関係者多数参詣のもとに落成法要が盛会に厳修された。
    ここに以上の由来を碑に刻み後世に伝えるもの也。
              平成十二年六月吉日                                                          
   八反甫の碑(姉崎・ふじね橋脇)  <碑文全文を資料室に、関連記事を展示場にそれぞれ掲示しています>
 昔、ここは八反甫といい、白砂青松の海岸が連なり、西は富士、東ははるかに姉崎神社の鬱蒼とした森が見える風光明媚なところでした。
 姉崎、斉藤 孝(1876~1967)は、ふる里を愛し文化の高揚を願う心からここに数々の碑を建て八反甫を姉崎の名勝地として世に広めました。
 ふる里の貴重な歴史を語りかけてくれる史跡です。   大切に致しましょう。
  平成八年八月           市原市ふる里文化研究会

<以下は石碑の抜粋>
東京湾随一名所  旧将軍家献上貝汐干狩  各宮殿下各学校團体御来遊  婦女幼童安全第一海水浴場
日本随一夕陽名所 眺望絶佳八反甫夕陽丘 魚漁 網舟 釣舟 簀立網 
タイ、カレイ、キス、コチ、ボラ、セイゴ、アジ、サヨリ、エビ、ハゼ、カニ、其他 
別荘好適地 所在別荘數百戸

姉崎名所八反甫 新舞子濱  富士筑波内湾一望夕陽丘  東京湾随一名所汐干狩  避暑納涼安全第一海水浴場  魚漁釣舟網舟簀立網

嘗テ、東都其角堂永機、孤山堂卓郎両大家当地名所八反甫ニ遊ヒ夕陽ノ西山ニ傾キ残照我國勢田ノ夕照ニ勝ト左ノ一句遺ス
『春宵一刻價千金』ニ題シテ「名月の價けちらす光哉」卓郎                                                  
   記念碑(椎津・八坂神社境内)
明治二十六年椎津漁業組合を創設し爾来明治三十五年漁業法の改正に伴ひ椎津漁業組合が設立され明治四十二年専用漁業権を許可された その後先輩諸兄の労苦と努力とにより本組合運営に努め昭和六年海苔の養殖を創業し昭和二十四年椎津漁業協同組合を設立した
図らずも去る昭和三十六年京葉工業地帯の造成に協力することゝなり区画漁業沖漁業並びに雜漁業関係を含め総計金拾四億参壱阡壱百九拾萬円の補償を受け
昭和三十六年十一月七日これを二百名の正準組合員に分配した此處に幾多の伝統と歴史とを閉ぢ椎津漁業協同組合の漁業を放棄することゝなった依って幾世代に亘る父祖伝来の業蹟を顕彰する為に碑を建立し併せて今日迄の安全豊漁の守護と数多の関係者並びに組合員一同の協力とに對し感謝の意を表し以って記念とする

     昭和四十一年十一月三日 椎津漁業協同組合理事長 本多義雄撰文

                 組合解散 昭和四十二年一月十ニ日
                 碑建立  昭和四十二年三月十ニ日
【裏面】
歴代組合長
 三沢久兵衛 石渡茂太郎 古川清吉 海保垣藏 田丸松之助 中島宗平 安田竹治 佐川正三郎 中島正三郎 田丸作平 古川庄次

椎津漁業協同組合員氏名
 組合長 本多義雄  ・・・以下183名の氏名

 顕額
    千葉縣知事 柴田 等 


記念碑脇に椎津・姉崎間の「漁業権境界標」が遺されている。