東京湾今昔(新房総風土記より)

久保牛彦氏が書かれ昭和60年6月に発行された「新房総風土記」と云う本があります。
房総各地の忘れ去らえようとしている歴史、言い伝え、暮し振りなどが書かれています。
その一節に『東京湾今昔』があります。
ここには、船橋から富津まで内湾の各海岸で行なわれていた潮干狩り、簀立、釣りの様子が描かれています。そして、汚れいく海の様子も・・・

これらを紹介します。






  
潮干狩り
内湾沿岸一帯は潮干狩の好適地、そのころは勿論、まだ大正から昭和初期にかけては、何処の浜で、どんな貝を掘ろうと自由だった。麻袋をかついで皆掘りに行った。当時はほんの近在の者しか出かけなかったので、わずかな時間でアサリが袋にいっぱいになるし、ハマグリも足でさぐるとすぐ見つかった。
《浅蜊ほる干潟にひかる忘潮子持ち沙魚(はぜ)ゐて人におどろく》
《掘りあてしこの蛤の大きさよ藻草かめるを潮水に洗ふ》
《わが貝を掘りたる穴をひたしつつ上潮となる水さきしづか》
昭和十年ごろの坂田海岸での拙詠だが、私が貝を掘ったあたり、今は新日鉄君津製鉄所の大煙突が白煙を吐いている。

潮干狩を楽しむには、遠浅で貝がたくさんいるということ以外に、美しくなければならない。
その意昧で東京内湾の千葉、木更津海岸は、大阪の住吉や堺の大浜、和歌山の加太、愛知の蒲郡などとともに潮干狩の名所であった。
「船橋海岸から富津海岸まで約七十キロの東京内湾の沿岸は、至るところ潮干狩の好適地です。 アサリ、ハマグリが豊富に採れます。心地よい潮風、明るい太陽のもと、健康的な潮干狩をどう ぞ。」
これは昭和三十五年、千葉県と同県観光協会が出した観光宣伝パンフレットの一節である。もともと観光課のない日本唯一の県といわれる程、観光資源のない県として、これはとっておきのもの、それが二十年後の今、内湾の埋立が急テンポで進み、潮干狩どころではなくなった。あと十年もしたら、潮干狩は昔の夢物語になるかも知れない。
僅かに残る潮干狩  木更津で潮干狩をするには料金をとられる。大人八百円(五キロ迄)子ども四〇〇円(二・五キロ迄)で一キロ超過することに二百五十円の超過料金がいる。貝を掘りはじめる前から、規定を超えて掘った場合は超過料金をいただきますと、拡声機で告げている。
それをきいただけで、潮干狩のおもしろ味は半分ふっとんでしまう。それでも超過料金を支払うほど掘れればよいが、狭いところへ沢山つめかけて掘りまわすので、なかなかアサリにぶつからない。いや気がさしたところへ業者が現われて「そんなに掘っても疲れるだけ、買って行ったほうが早い」という始末である。
潮干狩り場は同市牛込、金田、久津間、江川、木更津の五ヶ所。国鉄でも東京、両国から木更津まで、臨時列車「潮干狩り号」を運行する。年々海なし県の群馬、埼玉、山梨など、県外からの団体客も多いが、交通の便のよい木更津に殺到し、よく掘れ粒もよい他の四ヶ所は比較的閑散。
土、日曜のお客は一万三、四千人で年々三割つつぐらい増えている。


簀立
簀立と女流作家たちこの辺の海岸、潮干狩の外に簀立がある。この簀立というのは、長さ一丈余の篠竹で、延長四、五百間もの垣を海中につくる。その垣を渦状にめぐらせ、干潮とともに沖へ退こうとする魚が、その垣に添って自然と渦の中に入る。入ったら最後もう出られない。
その箕立場に船を出し、素足で海に入り魚を手づかみに捕えるのである。銀鱗を閃めかせて豪快に逃げまわる大魚を追いかける快味は無類。カレイ、ヵ二、クシコ、スズキ等がとれる。獲物は舟の上で料理し、刺身やアライ、または天ぷらに揚げて船の上でたべる。船の上だからうまく感ずるのだが、箕立の魚は実際は味がおちる。箕の中で外に逃れようと全力でもがくうちに、肉のうま味がなくなるのだそうだ。
昭和二十六年五月二十二日、吉屋信子、宇野千代、壼井栄、長谷川春子ら女流作家が木更津の海で、この箕立遊びをしたことがある。同行した林芙美子は朝から体の調子が悪いといって、宿屋で酒を飲んでいた。気分がややよくなったところで、素焼きの茶碗をとって「花のいのちはみちかくて苦しきことのみ多かりき」と書いた。それから間もない六月二十八日、四十七歳の短い生涯を閉じた。









釣り
昔の内湾は釣にも適していて、黒ダイ、カレイ、キス、サバ、ネヅッポなどの小魚類がよくつれた。市原市八幡の浜で今アパlトを経営している小泉常吉さん、家のそばに昔の海岸線を示す松が二十数本残っているばかりで、海は遠くへ行ってしまったが、昔は朝から晩まで海は眼の前にあった・彼はそこで釣客を乗せて、ハゼ、ボラ、セイゴ、カレイを追っていた。そこへ少将時代の東條英機や小磯国昭もよくやって来た。東條英機はなかなか気むつかしかったが、釣れると心から喜んで、まるで子供のようだったという。
汚れゆく内湾
汚れゆく内湾もう九年程過去のことになるが、男二人、女一人のクルーで、日本最初のヨットによる世界一周に挑戦した白鴎号が、一年四ヶ月の苦闘の後、帰って来たのが昭和四十五年八月二十二日だった。その乗組員の話ー。
「三人が驚いたのは日本近海の汚れ方、台風十号にもまれ散々苦労し、やっと八丈島を見たとたん、ビニール袋、木材の切れはしなど、さまざまなゴミがヨットを取巻きだした。陸地の方向から吹いて来る風は、くさったような臭気を含んでいた。ぼくらの航行コースで一番きたなかったのは日本周辺、帰って来たのはうれしいが、これには本当にガックリした。」という。われわれがきれいな海の見本のように思っている八丈島の海でさえ、よそにくらべればきたなく、日本周辺は世界で一番きたなかったというなら、一たい東京湾の海は、どういったらいいのだろうか。
東京湾を上空から見ると、川崎、横浜、東京、千葉の順にきたない。船で横切ると、夏の湾は全体がコーヒー色である。秋になって水温が下がり、浮遊物が沈み始めると、千葉県側だけが青みがかって来る。湾央から東京、横浜側は表面にうすい油の膜が出来ている。(朝日新聞)
木更津l川崎間の東京湾を毎日ゆききするフェリーボートの船長渡辺次夫さんはいう。
「とにかく五年前とは比べものにならんね。あのころはまだ船の回りを魚がはねたりしてたもんだ。いまは姿もみせなくなった」。渡辺さんは宮城県の漁師の次男に生れ、十七歳の時から外国航路の貨物船などに乗り、四十年力ーフェリー就航と同時に船長になった。それ以来東京湾を毎日三往復して来た。カジをにぎって水面を見つめている生活だ。いやでも海のよごれが眼につく。(朝日新聞)

東京湾はまさに死に瀕している。十五、六年前までは千葉五井沖から羽田沖にかけて、まるで煙がたなびくように飛んで行く鳥の群れを、よく見かけたものだが、いつのまにか見られなくなった。
「市川市にある宮内庁御猟場のカモは十年前の十分の一。サギもこの五年間で十分の一に激減した。このほかシギ、チドリなどの大型の鳥ほど、減り方が目立っている。
市川、浦安へんで、五年前にはガンを三百羽ぐらいみかけたんだが、いまはまったくいない。
ことし五月のことだが、毎日のように鳥の観察にかよっている千葉県の新浜で、ショッキングなシーンを目撃した。空を飛んできたゴイサギが目の前で突然落下し、のたうちながら死んでいった。最近こんな鳥の毒物死が目立つ。鳥の生活が毒物でおびやかされているということは、人間にとっても、いずれ同じことが起きる可能性があるわけです。」(四五年九・六、朝日新聞。山階鳥類研究所長蓮尾嘉彪氏談)


  「新房総風土記」 著者久保牛彦 うらべ書房 昭和60年6月発行
    写真は「いちはら昔写真集」  市原市役所 昭和57年より