乾海苔製造(五井漁業史より) 

昭和36年3月、五井漁業共同組合は漁業権を放棄し、翌37年7月に解散した。
昭和63年、かつての組合の関係者によって、失われた豊かな海、それを糧とした漁民の生活、そして先祖から受け継がれてきた海を放棄せざるを得なかった事情を後世に残すために『五井漁業史』が発行されました。
その中に当時の「乾しのり海苔製造方法」を、福原利男氏が書かれています。

「乾海苔製造方法」

「ノりのたね」つけ
のり網に「ノリのたね」即ち胞子をつけるのは、九月下旬に海水の水温が二二度位に下った頃に行います。丁度此頃陸上では、蔓珠沙華とよばれる赤い彼岸花が咲き、また金木犀が良い匂いを漂わせている頃です。
「ノリのたね」はどこでもつくということではなく、のり漁場の中程から沖合でないと、良いたねはつきません。たねがついてそれが目で見える位に生育するのには、二〜三週間位かヽります。
普通たねつけの時にはのり網を、五枚位重ねたまヽ張っておきますが、のりが生育して目で見える様になると、一枚づつにはなして夫々の棚へ張って、のりの生育を促進させます。
また、その時に何枚かを、くされ病等で被害をうけた時に張り替える予備網として、岸に近い海苔棚に高目に張って、海水に網がつかる時間を、一般の養殖ののり網より短くなるようにして、のりがあまりのびないように、即ちのりの生青を抑制してとっておきます。このため、この網を抑制網、棚を抑制棚とよんでいます。
のりのつみとり
のりが目で見えるようになってから、二汐(三〇日)位たつと、のりがよくのびて、つみとれるようになります。のりがとれ初める時期は、十一月中旬頃で、この頃から暮までは海水中の栄養分も多いので、色沢の良好な、軟らかいおいしいのりがとれます。その反面いろいろの病害も出易い時期です。水温は一四〜一五度から一〇度位で、のりが一五糎位の長さに生育します。
年が明けると水温が下がり、一月下旬から二月上旬にかけての大寒の頃に、六度前後の最低水温になり、また春に向かって徐々に上がって行きます。年内は一回のりをつみとると、一汐(一五日)たつと、またつみとることが出来る位に、のりがよく伸びます。しかし、年が明けると水温が下り、のりの伸びもおそく、色沢も年内ののりに比ぺてやヽ劣り、葉も硬めになります。
のりの養殖は普通三月一杯で終わります。

のりのつみとりは、「ベカ」とよばれる小舟にのって、巾一、三米、長さ四五米の棚に張ってあるのり網を片側から伸びたのりを、手でひっぱってつみとります。 網の片側ののりのつみとりが終わると次に、反対側にまわってつみとります。 一網で大体乾のりにして二千枚位ののりをつみとるのに、二時間位かヽります。ですから三時間位の干潮時に、一枚半位の網ののりしかとれません。
のりは最初についた「たね」即ち胞子が生育して葉になるまでに、葉先からつぎつぎに胞子を出して、網糸にのり芽を増やしていきます。

のりのつみとりは、最初についた胞子が生育して、伸びたのりの葉になりこれをつみとって、次にはその次ののり胞子が生青して、伸びたのり葉をつみとるといった経過になります。 ですから、のりのつみとり方法は、伸びたのりを荒目につみとります。あまりきれいに短目につみとってしまうと、次にのりが伸びてつみとれる迄には、相当の日数がかヽります。このようなことからのりのつみとりは、いうなれば間びき方式といえるでしょう。
のり養殖場でのりのつみとりの出来る日は、大潮(旧暦一日〜一五日)前後の数日間です。この時には潮がよくひいて、のり網が空中に出るので、のりのつみとり作業が出来ます。

のりが生育してつみとりが出来るようになると、毎日海へ行きますが、大潮の初期は干潮時刻が午前中で、中心になると正午前後で、後期になると午後と段々おそくなります。大潮の初期には朝五時頃から海へ行くので、こんな時は懐中電灯を持って、自分の棚と他人の棚とを間違えぬように確認して、のりとりをはじめます。大潮後期の晩汐になる時は、家で昼食を終えてから出かけるので、海から帰ってくる時には、夜空に星が輝いていました。
曇天の北東の風の吹いている日などは、寒さが身にしみて、のりのつみとりをはじめても、手が冷えて感じがなくなるので、ベカの舟べりに手を打ちつけて、手に活を与えます。一〇分も続けていると手が赤くなり、冷たい感じがなくなってきます。こんなにまでしてのりをつみとっていました。


乾のりの製造
つみとったのりは、養殖場で上潮のきれいな海水で大きな笊の中に入れて、丁度お米をとぐようにして、手でよく洗います。こののり洗いをよくすることで、良い乾のりが出来ます。
つみとってきたのりは、大潮の初期だとのりを午前中につみとり、午後にのりを抄き上げて天日乾燥を行えますが、大潮の中心や、晩汐になると、その日はのりのつみとり作業だけで、のり製造作業は翌日の早朝に行います。
翌朝目覚まし時計の音で五時に起き、身支度もそこそこにして、のり抄き作業をはじめます。
まず肉挽き器と同様のチョッパーに生のりを入れ、のりを細断します。この細断したのりを、七〇立容の樽に真水と共に四・五瓩位の割合に入れてよくかきまぜます。これを抄き桝とよばれる木製の、縦一八糎、横一〇糎、深さ三糎位の桝ですくって、のり簀の上へつけます。のり簀は数枚重ねておいて、この上にすいたのりが一定の形になるように、抄き枠をのせ、この中にのりを均一になるよ うに撒きつけます。のりをつけた簀は数枚縦に重ねて水を切ります。

 台簀乾し

 大阪乾し

のりをつけた簀は台簀か又は、枠に一枚宛張りつけて、屋外で日光で乾燥させます。
台簀というのは畠などに杭を一列にならべて打って、裏側に藁束をならべた上に、葭簀をはったもので、これは広い土地が必要ですし、乾燥途中で雨でも降り出すと、台簀の上に一枚宛張りつけたのり簀を、家族総出で取り込む作業が大変です。
枠の方は木の桟又は金属製の棒で作られており、丁度障子の様な構造から、「障子干し」、又は関西方面で初めて使用され出したためか「大阪干し」と呼ばれています。これはこの枠に一枚宛のり簀を数枚とりつけて屋外で乾燥させます。これは広い土地も必要としませんし、また運搬が簡便で、雨などの場合にも家の中への取入れにも便利です。また天候不良の場合のり作業小舎などで、ストーブを焚いて火力乾燥の時にも適しています。
しかし、台簀乾しの場合には日光の熱を藁束が吸収して、良好な乾のりの製品が得られます。乾し上がったのりは丁寧にのり簀から剥がして、一○枚位一帖とし半分に折って、重ねてたヽみます。
のり剥がしの時に、うまくのり簀から剥がれず破れたり、またのりの所々に穴があいたようなものはのぞきます。
のりの販売は仲買人が訪ねて来て、その家の乾のりを見て値段の交渉を行い、双方が納得した場合に売り渡されます。

全自動乾のり製造機
私達五井漁業協同組合が解散した後で、のりの摘採、製造、乾燥はすべて機械化され、養殖方法も技術革新で大いに飛躍し、私達がのり養殖を終える頃には、全国ののり生産枚数は三○億枚台でしたが、現在はそれが七○〜八○億枚台で、生産しようと思えぱ一〇〇億枚台も可能です。このため今迄売手市場であったのり業界が買手市場になり、全国的に生産調整をしなければならなくなりました。 販売も本県では県漁業協同総合連合の主催する共販制度になりました。
のり網からののりのつみとりも、電気掃除機のような機械でのりを吸いとって、カッターで切り、船の中の笊の中にとりいれます。
のりの製造も、のりを入れれば水洗して細断し、自動的に簀に抄いて乾燥機の枠に取りつけ、乾燥終了後、乾のりを簀から剥がす機械にかけられ、生のりから乾のりになる迄三時位で二〜三千枚の乾のりが得られるようになりました。
ついでのことながら養殖技術の方も種網を冷蔵庫に保管しておいて、十二月になってから沖の深場にロープをはった棚に出して、常時海水表面に浮かせる養殖方法で、生産量が大幅に増進しました。 のりの種類も一番美味で良質なアサクサノリは、病害に弱く全国的になくなり、これにかわって、 スサビノリ系やそのほかの良質なノリが養殖されています。
「五井漁業史」 発行 五井漁業史編纂委員会 昭和63年3月