六段線標柱(海苔種付け高さ基準標

  市の「道路愛称、モ二ュメントの紹介」の中で「潮見通り」のモニュメントが紹介されています。

『その昔、この通りの沿線は、遠浅の海岸で、海苔の養殖や、あさり、あおやぎなど海産物の豊富な漁場として栄えていました。現在は海が遠くなり、すっかり姿を変えたこの地区ですが、そのような歴史があったことを伝承してほしいとの意を込め、貝類、六段線(海苔種付け高さ基準標)、ウミネコなどを象徴的にシンボライズしました。また、黒御影石の上部は、五大力船の澪を波頭で表現し、羽を広げたウミネコは、万葉集巻七にあり、この地区を詠んだと推定される~夏麻引く海上潟の沖つ州に鳥はすだけど君は音もせず~からヒントを得て、潮待ちから飛び立つ姿をしています。 』
写真は今津朝山に建つ「潮見通りのモ二ュメント」(白文字は当館で挿入)

この中に出てくるで「六段線(海苔種付け高さ基準標)」をご存知でしょうか。
これは市原市の松ヶ島漁業組合が苦難な研究の末に発見したもので、全国の海苔養殖に革命的な成果をもたらしました。

この六段線について、「失われゆく浜言葉」(落合三代治氏 谷嶋一馬氏共著)「市原浦における海苔養殖について」(齋藤廣氏論稿)より紹介します。

                             ↑クリックで説明図
千葉県での海苔養殖は文政五年(1822)人見村(元君津市)で始まり、市原では明治三十三年(1900)青柳浦組合が金毘羅下での試作したのが最初です。
当時の養殖は海中に粗朶(そだ:木の枝)を建て、海苔の胞子(たね)を付着させての育成でした。 自然養殖では当たり外れが多く海苔は運草(うんぐさ)と呼ばれて、海苔養殖は副業とされていました。
 松ケ島漁業協同組合長・齋藤久雄は、網篊(ヒビ)による管理養殖の研究を行う事を策定し、昭和九年七月その研究を落合三代次・斎藤禧増次両氏に委嘱しました。組合内に研究部を設立し、試験漁場を設け、網篊養殖の研究を三年間行い、昭和十一年海海苔の胞子の多く付く層を発見することができました。それは五寸間隔で刻まれた潮高標の六段目の線が海苔胞子の付着層に当たることから、この潮高線を六段線と命名しました。(写真右)
この六段線を刻んだ基準標を市原郡内の八漁場に建設し、これが網篊を張る基準になりました(写真左下 上は養老神社境内の基準標)。 これにより海苔の品質・採取量が増加し、海苔養殖を生業とした生活も安定しました。
この六段線は海苔養殖の革命的成果として全国的に知られ、全国の網篊を張る基準ともなりました。
齋藤氏はこの業績が認められ、昭和二十五年十月全国水産功労者として大日本水産会より表彰され組合員から「海苔翁」と称されました。


海苔翁の碑と海苔種付高サ基準標とも、松ケ島の養老神社の境内に建てられております。
(「消えた海・海の碑」を参照願います)
 


参考書籍
   「失われゆく浜言葉」 著者:落合三代治氏 谷嶋一馬氏   市原を知る会 2007.5発行 
   「市原浦における海苔養殖について」 齊藤廣氏  市原市歴史と文化財シリーズ第12号「市原の海 いまむかし」 平成20年9月発行より