変遷(海苔ヒビから流し網へ)

富津市立・富津埋立記念館は、富津沖埋立事業を記念した施設です。
建物の外観は「簀立て(すだて)」をイメージした造りとなっており、館内では埋立以前の豊かな海での漁法、船や漁具が展示されています。
記念館は、『かつての海の姿をしのび、当時の暮らしや海から得ていた感動を若い世代に伝えていくこと』を目的としており、「海苔つくり教室」も開いています。

「富津埋立記念館」の詳細はリンクのページから

展示に「富津における海苔養殖技術の変化」があります。
海苔ヒビから流し網までの変遷を展示したものです。


<富津における海苔養殖技術の変化>
 ヒビ(たけひび)
 孟宗竹を使用した海苔ヒビで、富津で海苔養殖が開始された昭和5年から使用された。海苔養殖の開始が早かった人見・青堀地区では江戸末期〜明治時代から使用されていた旧来からの海苔ヒビで、昭和24年に化繊の海苔網が使用されるようになってからは少なくなったが、昭和30年代中頃までは補助的に使われていた。

   海苔採り
 ヒビ(きひび)
 マテバシイ(とうじ)の木の枝を使用した海苔ヒビで、竹ヒビと同じく富津で海苔養殖が開始された昭和5年当初から使用された。マテバシイの木は近隣の飯野・青堀地区で植林されたものを購入して使用することが多かった。竹ヒビと同じく、昭和24年の化繊海苔網普及以降は少なくなったが、昭和30年代中頃まで補助的に使用されていた。
棕櫚網(しゅろあみ)
 棕櫚の木の皮をはがして糸をつむぎ、これを海苔網として使用したもので、海苔網としては初期のものであり、昭和15年頃から使用された。網の支柱には真竹を用いた。収穫時には網に海苔が固着して効率が悪く、昭和24年の化繊海苔網の普及とともに、急速に廃れた。

   海苔採り
化繊網(かせんあみ)
 化学繊維(ナイロン)を使用した海苔網で、昭和24年に使用が開始され、一斉に普及給した。海苔網には種の入った牡蠣柄をビニールで固定したり、空き缶で吊り下げたりと様々な方法が採られた。またこの時期には「抑制堤」と呼ばれる場所で、成育途中の海苔を一時凍結保存しておき、1年の間に多くて3〜4回にわたる収穫を行なうことも可能となった。化繊網は、昭和47年に下洲(したず)の海岸でベタ流し方式が開始されるまで、富津の海苔養殖の主要な用具として使用された。

  海苔採り(掃除機)
ベタ流し(べたながし)
 海面に広域に網を張り、海苔採取船(通称潜水艦)を網の下にくぐらせ、海苔を回転する刃で切り落として収穫する方法で、昭和47年、富津岬南岸の下洲海岸で本格的に実施されるようになってから、現在も引き続き行なわれている。このベタ流し方式の採用によって、海苔の収穫量には個人差が少なく、安定して多くの収量が確保できるようになった。このベタ流しの方式は昭和25年頃からすでに実験的に施行されていたが、改良と工夫を重ねて現在に至ったものである。

  海苔採り(潜水艦)
  富津埋立記念館 「富津における海苔養殖技術の変化」