嘆き節


昭和30年代になると海の汚染が急速に進み、漁獲量が激減していく。
工業排水、家庭排水が海へ流れ込み、栄養過多となった海では赤潮が発生したり、浅瀬に溜まった家庭ゴミが分解し酸欠の海を作り出し多くの魚貝類が大量死した。
海の汚れとともに、魚種も減少していき、さらには、油くさい魚、背骨の曲がった魚、瘤が出来た魚などが網にかかるようになっていく。まさに江戸前の海は『死の海』直前であった。
生活の場を脅かされていた漁師に追い討ちをかけたのが、『京葉業地帯造成計画』である。
東京湾沿岸を埋め立てて工業地帯を造成するものであり、漁場はなくなり漁師は陸に上がらなくてはならない。
多くの漁業組合はこれに反対したが、工業化への流れ、汚染の進む海を前にしては反対しきれず、止むを得ず『漁業権』を放棄した。

当時の漁師の心境が『ちょっと昔の江戸前』(塩屋照雄 著:休憩室 参照)に載せられている。
塩屋氏は元東京都水産試験場長であり、その経験からかつての江戸前の漁師に伝わる言い伝えや話、漁法などを分かりやすく書かれた本であるが、ここでは「若手江戸前漁師の嘆き節」の章のみを紹介する。
江戸川河口から多摩川河口にかけての江戸前が書かれているが、対岸の海・姉崎地域の漁師の人達も同じ思いであったのであろう。
漁師の憤懣やるかたない思いが伝わってくる『嘆き節』である。

『ちょっと昔の江戸前』より(注:原文を多少省略しました)
==>
怪物たちの出現状況
海の汚染が進むりつれて、いろいろな怪物たちが出現した。
出現年代 異 常 現 象 説   明
1952〜 赤潮特定種のプランクトンが畏常繁殖して、海水の色が変わるなどの現象が起きる
(有害、無害いろいろ)
1952〜1953ホトトギスガイの異常繁殖アサリ、ハマグリ等の漁場を破って繁殖し、下に棲む貝類の成長を阻害し、果ては死滅にいたらせた
1952〜1954アナアオサの異常成長緑藻の仲間で異常生長して貝類漁場を被った結果、アサリ、ハマグリは勿論ホトトギスガイまで窒息死した
1953〜1954ヒトデの大挙来襲来襲域の貝類をはじめ、漁獲途中の魚類等を食害した
1955以降海苔の癌拡がる海苔の養殖漁場に蔓延して養殖生産に徹底的ダメージを与えた
1960〜
 終息不詳
不詳背曲がりスズキ現れるスズキの幼魚に背曲がりや、顔面のつぶれたもの(頭骨異常)が多く見られるようになった
1961〜
 終息不詳
癌を患ったハゼたち頬や背中部分に癌とおぼしき指頭大の腫瘍を持つものが多く見られるようになった


若手江戸前漁師の嘆き節
都市廃水に攻めたてられ、収穫の落ち目傾向が目立ち始めた昭和三十年代には悲鳴とも なげやりともとれる『漁師の嘆き節』をおりにふれて聞くことが多かった。
私の手元に当時の江戸前漁師の若者達によって作られた研究グループの連絡機関紙が若干残っている。
苦しいさなかに研究熱心な若音達は、思いのほかと言っては叱られるかも知れないが篤漁家としていろいろと業績を残されている。明日を憂いながらも精一杯生きる努力をされた人達には敬意を表するばかりである。
その機関紙のなかの小さなコラム欄に掲載された戯れ言・泣き言のいくつかを年を追っ て抜粋し、その背景などについて少し触れてみよう。

□東京都浅海増殖研究協議会機関紙
 「協議会ニュース」復刊第一号  昭和33年(1958)9月
『汚水を流して害がないとぬかしおる
 水爆実験をやって、放射能の害がないとぬかしおる
 みんないいたいことをぬかしおる ヤルカタナキ フンマン』

∵ 当時水爆実験がさかんに行われていた。
終焉の望めない汚水の垂れ流しは漁師にとっては放射能汚染以上であった。

『川がゴミを運ぶベルトコンベアーなら、
 さしずめ俺らはゴミ捨て場のウジ虫か』

∵ 都市廃水、工場廃水、一般都民も平気でなんでも河に捨てた。それらは終未的には江戸前の海に流れ込んだ。海の中でも流れが渦を巻くような場所には犬猫の死体までも点々と浮かんでいた。しかも重油などの油にまみれて。

□同第二号     昭和34年(1959)年1月
『風が吹いて桶屋が儲かる
 台風が来てノリ屋が儲かる
 ノリ屋が儲かれば税務署が儲かる 気をつけろ!』

∵ノリ屋は海苔養殖業者の意味である。
江戸前漁場には周辺から流れ込んだ都市廃棄物が堆積腐敗して海底も荒廃の一途を辿った。
貴方まかせながら、台風は河川の汚水とともにこれらの堆積物を一時的にも清掃してくれたのである。

『誰だまた油を流した奴は
 たまには札束でも流してみろ!』

∵丹精したノリは油をかぶって商品にならない。スズキやボラなど油の臭いがついてやはり売り物にならない時代は永く続いた。油垂れ流しの犯人の特定は難しかった。また、外洋でも原油の不法投棄が当然のように行われていた。

□同第五号(汚水間題特集)    昭和34年(1959)4月
『のりは貝にもぐって糸状体(シジョウタイ)になる
 こちとらは汚水のおかげで
 死状態になる』

∵糸状体は、簡単に言えばノリの越夏形態である。
江戸前漁師も本格的に糸状体を自ら培養してノリ養殖技術革新に取り組もうとしていたのがこの頃である。

『浮イタ、浮イタ、サッパが浮いた
 全く色気のねえ浮イタ話よ』

 サッパはイワシ科の内湾性の魚、瀬戸内海のままかりで有名である。
∵江戸前の魚は赤潮で殆どは死ななかった。この場合は汚れた河川水の影響と考えられる。

『おい、また貝が死んだとよ!』
『誰だ、貝になりたいなんて言った奴は』

∵水質汚染の進んだこの頃は江戸前の貝の死ぬ順序は毎年殆ど決まっていた。
最初は深い場所のトリガイからアカガイへ、次に浅い場所のアサリが、毎年初夏から真夏にかけてほぼ同じ時期に死んだ。原因は複合的なものであるが、それぞれが棲む底層の海水中の溶存酸素が無くなる時期と一致していた。
名画『私は貝になりたい』の主演俳優「フランキー堺」もすでに亡き人になった。

□同第六号    昭和34年(1959)年8月
『やれ埋めろ それ埋めろ
 都合のいい所だけ埋めないで
 こっちの損害も十分埋めてくれ!』

∵漁師にしてみれば言いたくもなる。潮通しが変わるとか環境に及ぼす影響なんて考えてくれるような時代ではなかったのである。

『タコは飢えて足を食らい
 漁師は飢えて補償金を食う
 タコの足はまた生えて来るんだがねえ』

∵この年の十二月には江戸前漁業のあり方を審議する東京都内湾漁業対策審議会が発足した。そして審議の結果、ノリ・貝類等を対象とした一切の漁業権を消滅させるという結論に達して補償交渉が開始されたのである。

□同第七号   昭和35年(1960)年2月
『腐った漁場で海苔まで腐る
 海苔が腐れば漁師もクサる
 漁師がクサれば……』

∵いろいろな病気が末期のノリ養殖場を襲った。とりわけて顕著だったのが癌腫病であった。癌腫病に罹ったノリはフカフカの縮緬状になり、刻んで漉いても艶がなく、製品は厚ぼったく、とても海苔でございますとは言えない代物になってしまった。

『埋立反対の反対の反対の反対の反対の反対……』
 どっちかはっきりしろよ』

∵病んだ海に病んだ魚やノリ、そして死にそうな貝を否応なしに毎日目にすれば、いかに仕事熱心な江戸前漁師でも考え込んでしまったのである。先祖伝来の海を愛しつづけて野垂れ死にするか、いっそのこと陸(オカ)に上がって何か別の生業を探すか心は千々に乱れた筈である。
この気持ちが第三者にどれだけ判ってもらえたか?

□同第八号(埋立問題座談会特集号)   昭和36年(1961)年7月
『ベランメエ
 土一升 金一升の世の中よ
 水一升 金一升でどうだい!』

 と誰かが言いました
∵まじめな漁師でも考えたはずである

『補償金が出たら株をやりたい
 と思いますが……』
『オイチョカブでもいかが?』

∵しばらく補償交渉が続いた後、東京都と漁業者側の折衝は妥結し補償金の支払いが行われた。かくて江戸前漁場の漁業権などが消滅したのである。(交渉妥協は一九六二年十二月)
ところが、本当にバクチで補償金をすっちゃった漁師もいたらしい。しかし、この戯れ言葉が引き金になったのではないことを後々のために付言しておく。

まことに、哀れな経過を辿った江戸前漁業であるが、漁業権の全面放棄など一連の大変革は一九六二年に決定的となった。そして一九六四年には江戸前の海を跨いでモノレールが開通し、東京オリンピックが開催された。
自衛隊によって東京の空に描かれた五輪マークを、海の職場を失った若者達はどんな気 持ちで眺めたことであろうか。


「ちょっと昔の江戸前」 塩屋照雄 著 1997年 日本図書発行会発行