「椎津の浦 いか漁の話」 田丸 栄二 | |
![]() 朝の椎津の浜 ![]() かご漁 ![]() | 「ケヤキの葉が、すずめかくしになるといかがくる」
と昔は云い伝えたものだが、と、近所の老魚夫からきいたことがある。 春さき、ケヤキの若葉が育って、枝にとまったすずめの姿が晃えない様になると、いかが来ると云うのである。 海苔の種付けに、蔓珠沙華と木犀との開花時季を適季とした漁民と同じように、ケヤキの若葉とすゞめとから自然暦をよみとり、昔の漁民もいか漁の季節を知り、漁獲量の多からんことを期待したのであろう。 この浦(椎津)一帯でとれるいかは、主に、すみいかだが、その頃になると、東京湾口附近を廻遊していたすみいかが、湾内深く這入って来る。推津の浦辺りで五尋から七尋ぐらいの海底に、散在し生えている海草に産卵に来るのだが、其処を待っていたとばかりに捕えるのだから憐れな話である。 流し舟…内湾漁民の多くが使用していた一人か二人乗りの小舟を動この浦では斯うも呼んだ。いか取りもこの小舟で操業され、「にしながし」と云って、小さな底引網でとることが昔からの漁法であった。 しかし、大正の末ころから「作り藻(つくりも)」と云う新しい方法でとるようになった。これは長くいか取りをしているうちにはだれでも思い付くであろうようなとりかたである。通称「だんご」とも云い、子供の頭ぐらいの土のだんごを作り、海水に揉まれてもこわれない様にアンペラで包み、縄でからげる。中心にぼさぼさした前年に刈取った萩の枝などを立てて、生えている海草に擬装したものである。 このだんごを各自たくさん作り、前以て地割をし与えられた領分の海底に一定間隔に沈める。だんご一箇毎に長い綱を用いて、目じるしに竹の棒を海面に浮かして置く。海草と思って産卵に集まっているいかを、網を入れてだんごごと引上げるという仕方であった。が、この方法は手間がかゝって面到だったらしい、その後戦争前あたりから、 ![]() いかの這入れる程の小さい口のある、竹籠の大きな ![]() ![]() ![]() ![]() 此の浦でのいかの漁期は割合いと短い。産卵期の終ったいかは、五月中ぱにもなると、再びもとの東京湾口辺りに帰って獲れなくなってしまう。 海草に産み付けられた卵は、浅海の適当な温度によって孵化され、幼魚となって、夏はそのまゝ内海で過し、秋になると十糎程に育っている。晩秋、霜を見るようになると、海水の冷えを避ける様にして、もっと水の暖かい、親いかの住んでいるかも知れない深海に去ってゆく。 数年前までは、大きな工場や煙突の見える埋立地に近い、もとの海岸べりを歩むと、芦原などに、不用になって捨てられたまゝの?が目に付いたが、この頃ではすっかり朽ち果てゝしまったらしい。 いかの季節になると、磯臭い漁師の家の庭先などに、いかのすみで黒くなった樽や魚ざるがよく干されていたりしたものだった。 すみいかは値段がはったからか、裏の海でとれてもそうたびたびは食べられなかった。しかし私共が子供のころ、大正のころまではたくさん捕れて値段も安かつたからであううよく食べたように思う。そして、あの、真白い舟の恰好をした骨を、井戸端などから拾って、池や小川に浮べて遊んだ、幼い日のことが甦ってくる。 |
おことわり:写真は、本文とは別ものです。 |