漁業権放棄・今津漁業共同組合



埋立られた養老川北地区
昭和33年頃
いちはらむかし写真集より

   
今津朝山漁業共同組合運動史
    昭和30年代初め、五井・養老川北地区、長浦地区での埋立てが進み、この間にある姉崎地区(松ヶ丘・青柳・今津・姉崎・椎津)は、両側が突き出た岬の内湾状態であった。埋立てによる海水汚染が進み、海苔の汚染、貝が全滅するなど将来への不安が高まりつつあった。
そんな中の昭和36年1月、姉崎地区で最も早く、千葉県知事より「今津朝山漁業共同組合」に「五井南部地域の埋立について」の依頼状が届いた。
当組合は姉崎地区の中央に位置しており、こことの協定締結が姉崎地区の全域の埋立推進の早道との県の思惑があったと思われる。
組合では、当初「埋立絶対反対」を唱えていたが、県の説得、漁業不振による将来への不安などから 補償金額交渉へと転換して行く。
当初要求平均1,300万円に対し回答額880万円、補償金分配方法、訴訟問題まで発展した準組合員に対する補償、漁民の雇用問題など、組合執行部は県側との交渉に腐心する。特に気にかけたのは、姉崎地区の先頭を走る組合であるため、先に交渉締結することにより、後続組合よりも低い条件となる事であった。このため県、組合との間で「他地区との不均衡は是正する」との覚書を交換することとなる。
後に、この覚書をめぐって双方の交渉が再びもつれることになる。

「今津朝山漁業共同組合運動史」に当時の苦悩の組合運営、県との交渉、苦渋の決断が生々しく記録されている。
同書は、 『今津方式によるところの交渉に当たって、生活擁護の面を他組合との比較の上で最有利に導いて行ったこと、さらにまだ権利獲得の余地が残されているという点、我々の交渉斗争に当たっての一致団結の賜であることを示しているといえます。』
と結んでいる。

昭和36年7月5日 協定書調印。

交渉過程 ==>
昭和35年 6月20日「五井南部海面埋立について」
県より通知来る

調印式風景
   
『先祖が海とともに生き、そして開拓を重ねてき来た生活の糧として幾星霜を過ぎ、現代尚漁民最大の稼ぎ場であったのである。
見よこの一瞬、我々の最も愛した海はもう永久に我々の手から離れるのである。』

補償金支給
   
『「軍艦マーチ」と共に支給が開始され、組合員の名前を呼ぶとそこから組合員がエビス顔で集まった。女主人が多いというこの地区だけに、子どもを背負った婦人の姿が目についた。証券会社、銀行など約30社の人々の集まり、とくに信託銀行では1社で40人もの腕きき社員を送り込み預貯金の勧誘につとめていたところもあった。』
 7月 9日「埋立て絶対反対」を総会で決議
昭和36年 1月13日「五井南部地先の海面埋立ついて」
補償交渉開始依頼書が県から来る
 1月23日絶対反対解除の決議
賛成147 反対32 無効8
 2月25日「説明会開催通知」県より来る
3月1日 千葉市
 海面実測開始
 3月23日補償要求書を県議会議長へ提出
要求額 平均1,300万円
 5月 8日仮協定書調印
 5月22日県より補償額提示
提示額 平均787万円
提示額上積と念書交渉へ
 5月30日念書締結
他組合の補償と不均衡のときは再協議する
 6月15日補償額決議
補償額 平均880万円
賛成164 反対60 無効1
 6月28日漁業権放棄、入漁権解約 総会で承認
 7月 5日協定書調印
総額20億3447万円および支払までの利息
支払:S36/7/5,9/30,S37/9/30,S38/9/30
 7月 6日第一回目の補償金支払い
組合員間で支払額差への不満高まる
一部では訴訟問題に発展
11月出光興産 敷地埋立て開始
昭和37年 2月姉崎地区・全漁協の調印終了
 6月新役員体制で念書問題の検討開始
10月 1日念書問題・県との協議始まる
他地区との不均衡の是正協議
10月10日出光興産 起工式
世界最大タンカー日章丸(出光) 東京に回航
昭和38年12月21日新たな念書調印
旧念書問題で県と紛糾。新たな念書を取交
昭和39年 2月20日組合解散



「今津朝山漁業共同組合運動史」 発行 今津朝山漁業共同組合 昭和39年8月20日