補償金の行方


海の思い出で紹介した「新房総風土記」(久保牛彦著)の一節「はまぐりの碑」の中で、漁業権を放棄して手にした補償金が災いした記事が紹介されている。
大金を目の前して、人生を狂わした人も数多くあったようである。


「はまぐりの碑」より

東京湾岸、浦安から富津まで四十の漁協があり、一万七千人の漁業労働者があったが、すでにあらかたの漁協が解散し、一万数千人が漁業を捨てた。
漁民はそれぞれ補償金をもらった。多い人で一千万円、普通七、八百万円だった。漁民は農民と同じで、割当てられた漁場に年々施設し、そこに家族の労力を注ぎこんで、海苔を取り貝を殖して細々と暮らして来た。だから皆何代何百年とつづいて来た。それだけに金勘定は不得手だし、その利殖法など知らない。突然入って来た大金がかえって災いし、補償金悲劇が相ついだ。

朝日新聞の報ずるところによると、姉ヶ崎漁協組合員だったAさんは「カネがはいったらハワイに行くんだ」と楽しみにしていたが、補償金が出た三十六年九月、木更津芸者のとりこになった。他の客と芸者をせり合いながら一年間、芸者置屋に「いつづけ」して、補償金を全部なくした。自分の家に戻り、たばこ銭をもらいに親類を歩きまわっていたが、二年後に死んだ。

四十四年に補償金を手にした富津漁民に、「暴力団の手がのび、バクチに誘いこまれた二十人のうち、一千万円の補償金を全部とられたうえ、借金までし、夜逃げした人も出た。三十二年から相次いで、漁業補償金をねらったものとみられるトバク事件は百九十二件、まきあげられたカネは数億とも数十億ともみられる」と新聞は報じている。
これらのトバク、如何にも漁民らしく、舟で沖に出てやったというから、警察がやっ気になって防止しても、なかなか発見しがたく、取締りようもなかったろう。

佐藤信淵の埋立構想には、年々人口がふえつづける江戸の「台所」としての役割と、千葉の零細農民を新田に移して、生活を保障するという、国土経営と直結した視點があったが、三十年代の埋立は、はじめから県のエゴイズムだけがめだった。県の税収は増大し、県民の一人当り所得も、全国平均を抜いた。しかし「土地っ子」に大きな犠牲をしいたことも、いなみ難い事実であった。

女におぼれ、トバクで金を捲きあげられるなど、身から出たさびとしても、すべてが金での解決でなく、海を捨てたあとの漁民の将来をも考えてもらいたかった。大部分の漁民をして「オレたちは県と企業にだまされた。漁師は海を離れたら終りだ」と言わせるような埋立であったことは否定しがたい。当時としては補償金は相当の大金と思えたであろう。しかし高度成長がつづいた今になれば、まったくはした金にしか過ぎない。県や企業には、そうした長期の見通しがあったが、漁民にはそれが全くわからなかった。「県当局が巨大企業に奉仕し、地域住民に顔をそむけて地域開発政策をすすめたといわれることがあってはならない。」(菊地利夫著『房総半島の地域診断』)という指摘は当を得たものといえよう。

また庄野潤三氏の力作「流れ藻」にも次のような一節がある。 「埋立てが始って、海苔を取っていた人たちには、一戸あたりかなり大きな金額の補償金が入った。
藁ぶき屋根の見えていたあたりが立派な瓦屋根の家になった。持ちつけない金が入ったので、一軒のうちで三台も乗用車を買う家が出たり、千葉あたりで派手に金を使う者が出るようになった。
近雄が市役所の食堂にいる時分であったが、友達とキャバレーへ行って遊んでいると、この地区のお客さんが入って来る。そうなるともう駄目で、まわりにいた女の子が手のひらを返したようにあっちへ行ってしまった。それまで結構もてていたのが、これでぺしゃんこになる。財布の厚みが違うのだから、口惜しがってもどうにもならなかった。
しかし、あの頃、派手に遊んでいた人たちは、あっという間にお金を使い果してしまって、いまでは運転手をしている人がいるという話や、車を買ったばかりに交通事故に会って命をなくした人もいるという話を近雄は聞いた。」

「新房総風土記」 著者久保牛彦 うらべ書房 昭和60年6月発行