十返舎 一九に『房総道中記』(正確には『方言修行金草鞋十七編』(むだしゅぎょうかねのわらじ))という、江戸両国河岸から房総一巡の道中記がある。
この中で『姉ヶ崎』が紹介されている。 わずか1ページであるが、当時の地名、久留里への道順、が書かれている。
簡単な『金草鞋シリーズ』の説明と『姉ヶ崎』の項を紹介する。
十返舎 一九と言えば『東海道中膝栗毛』である。 これは享和二年(1802年)に初編が出され、それから毎年一編ずつ加え文化六年(1809年)まで計八篇で、江戸を振り出しの弥次、喜多の旅は、京・大阪にいたって終わっている。
『膝栗毛シリーズ』は正編の『東海道中膝栗毛』のほか、次ぎのような続編が発行された。
金毘羅参詣/宮嶋参詣/木曾街道/善光寺道中/上州草津温泉道中/中仙道
ここでとりあげた『房総道中記』は、正しくは、外題『方言修行金草鞋十七編』(むだしゅぎょうかねのわらじ)、内題『小湊参詣金草鞋』という『金草鞋シリーズ』に属する作品である。
『金草鞋シリーズ』には以下の作品がある。
江戸見物/東海道/大阪見物、京見物/木曽路巻/奥州(三社詣、筑波、日光)/仙台/出羽(羽黒)/南部(宇曽利山)/西国巡礼/坂東巡礼/秩父巡礼道中記/身延道中之記/東都大師巡八十八箇所/二十四輩御旧跡巡拝/
小湊参詣(房総道中記)/越中立山参詣記行/白山参詣/伊豆記行/箱根山七温泉江之島鎌倉巡/四国遍路/再開航路/西海陸路
『膝栗毛』は通俗的なギャグとナンセンスの遊びの文学(後期滑稽本)で文が主となっている。 『金草鞋』は膝栗毛よりも広範囲な読者層をねらった当代の専門絵師による絵が主で、膝栗毛の滑稽と狂歌をそえた実用的な道中案内記的な記行である。
『房総道中記』は文政十年(1827年 一九:六十三歳)頃出版された一九晩年の作であり、『金草鞋シリーズ』のなかでも「最上の部に属する作(参考文献注校者)」である。
(一九 天保二年(1831年)六十七歳没)
絵師は歌川国兼代(初代歌川戸豊国の門人)。
『房総道中記』は江戸から房総を一巡する道中記で、途中途中の宿場を中心とした絵草子となっている。
この中の
『姉ヶ崎』を原文のまま紹介する。( )のふりがなも原文のまま。

姉ヶ崎、これよりも、押送船(おしおくりふね:手漕ぎ船)出る。このさき、椎津(しいづ)といふところよりも三里の原をとふり、真里谷(まりや)つ、久留里(くるり)へいづる道あり。豆原(まめはら)、小湊へゆく道なり。小松原、小湊へゆく本道は、浜野より潤井戸(うるいど)へいでゝゆけども、この道、大多喜(おだき)といふより川おほし。この姉ヶ崎よりゆく道は黄和田(きはだ)、大山、初日(はつひ)の峰(みね)とゆくときは、山ひとつ川はなし。
「大痘痕(あばた)の嚊(かゝ)、茶をくみてさしいだせしに
(狂)年若(としわか)き顔はあばたの妹(いもと)かと
おもへば姉(あね)が先(さき)のかみさま
六ブ「芝居の六部は、よくだんまりの幕に出て、おちをとるが、その六部には本名(ほんみやう)があって、もとは何(なん)の某(なにがし)といふきっとしたものだが、わしには、本名もなにもないから、つまらぬ。そのかはり足の達者なことにかけては十里や二十里あるくことはおちゃのこだ。昨日(きのう)も宿(やど)へ褌(ふんどし)をわすれて十里ばかり、ふってあるひてやうやうおもひだして、また十里ふってとりにもどって、こんどは十里しめてきたが、ふりでだへ十里や二十里はあるくから、しめるといくらあるかうもしれぬ。
しかし、おりおりはふってあるくがよい。っちとのあいだふってあるいたら、よっぽどふり太またやふだ
「戯言(たはごと)いはずさっさっとあるかっしゃい。ふるのふらぬのと面倒(めんどう)な。わしのやうにしっかりと褌(ふんどし)へはさんであるかっしゃい。しかし、けがをしちゃァならなへ、鉦(かね)をたゝくと
「今日(けふ)はよい旦那(だんな)をのせて、わしどもしあわせだ。あとの立場(たてば)でたらふく酒はのませてくださる。とてものことに、さだめの駕籠賃(かごちん)と酒手(さかて)をくだされて、こゝからおりていってくださるとなをよいのふ、棒組(ぼうぐみ)
「きさまはとんだことをいふ。それではあんまり冥加(めうが)すぎるから、それよりか、きさまはそんなに酔はなひから、わしはひどく酔って、足がふらふらしてあるきにくいから、どふぞこゝからわしをのせて、旦那(だんな)が先棒(さきぼう)をかついでくださって、わしが駕籠(かご)にのり、賃をまして下さるとなをよい

参考文献
『新版絵草子シリーズT 十返舎一九の房総道中記』 鶴岡節雄 校注
1981.2 千秋社
この本は中央図書館、姉崎図書館に置いてあります。(ただし帯出禁止)