江戸を中心として関東周辺の海運に小廻しの廻船として活躍していた船です。
市原の江戸湾沿岸には八幡・五井・姉崎・青柳・今津・椎津の湊があり、内陸部から川舟や馬背で運送されてきた年貢米をはじめ薪炭・材木などがここで「五大力船」に積み替えられて江戸へ送られました。江戸からの戻り船には衣糧・雑貨・肥料・砂糖・醤油・酒などが積まれました。
船は、長さ31尺(9.4b)から65尺(19b)、巾8尺(2.4b)から17尺(5.1b)、50石から500石積みの帆船でしたが、海上からそのまま河川に入れるよう一般の廻船より細長く、喫水(きっすい:船底から水面までの長さ)が浅い船型でした。
江戸時代には、こうした海川両用のため、川舟と同様に年貢銭賦課対象とされていた。
『五大力』の名は、重い荷物を運ぶので『五大力菩薩』からとったとされている。
上は『五大力船(若宮丸)の模型』:姉崎小学校 蔵
江戸への廻船として『
押送船(おしおくりせん:市原地方では”おしょくりせん”とも言う)』もあった。これは帆走は五大力船と同じだが、五大力船より小型で細身の流線型をしており、櫓を使いより早く江戸に着くことができた。船槽に海水を注入できる生簀が設けられており、漁獲物、特に鮮魚の搬送に利用された。
『五大力船』は昭和初期まで活躍をしていた。『五大力船の最後の船頭』の方々のお話(昭和48年録音)から、当時の姉崎の五大力船の様子をご紹介致します。
皆様による『姉崎五大力船の唄』(WMA 366K 2分22秒)
最盛期には姉崎には船持ちが15〜16軒ありそれぞれ1〜3杯の『五大力船』を持っていた。
東京へは主に米、藁、薪、松葉などを積み出し、戻りには砂糖、大豆、小豆、鰹節、醤油、酒などを積んできたが、積荷は依頼主により様々なものを積んだ。
河岸の澪(みお:五大力船をつけるための深い堀割)に五大力船をいれ荷を積み込み、潮が潮が引くと船が澪から出られなくなるため、潮が引く前に沖に出る。
潮の具合にもよるが大抵は夜が明ける頃に船出する。
沖で帆柱をたて、錨綱(いかりづな:普段は20`程だが大風などのときは40`程度に重くする)をあげ、大柱、表柱の順に帆仕立て(ほじたて:帆を巻き上げる)をして船出する。
風が良いと品川まで2時間半位で着くが、悪ければ一日走ってもあまり進まず、諦めて羽田沖から姉崎に戻って来ることもあったという。
船には2・3人(船頭1人、その他は乗り子と呼ばれた)が乗り込んだ。みんなそれぞれ「刺青」をして不慮の際、身元が分かりやすいようにしていた。
乗り子は毎年、店や船の名前が入った印半纏が「船持ち」から配られ、これに「めくら縞股引(ももひき)」の姿で吉原などに繰り出した。船乗りは気風が良いのでモテタそうである。
参考文献
「市原市史 中巻」昭和61年 市原市
録音テープ提供 谷島一馬氏(千葉県文化財保護協会評議員 島野在住)