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姉埼神社発行の『参拝のしおり』の全文を掲載します。 ジャバラ形式の冊子で、 「神社略記」(表面) 「松の嫌いな明神さま」(裏面) が説明されています。 |
<姉埼神社略記> 一. 姉埼神社は、千葉県市原市姉埼二、二七〇番地の地に鎮座する。JR内房線姉ヶ崎駅で下車て、東方千二百メートルの距離にある。 社殿は、宮山台という海抜五十メートルの高台にあり、眼前に東京湾を望める高爽(こうそう)の地である。 一. 去る昭和六十一年、祝融(しゅくゆう)の災(わざわい)にあって、旧建物物が失われ、今回新しく建造された神殿は、あたりの景観と相俣って、その偉容を見せ 神威を顕現している。 一. 姉埼神社は、社伝によれば、人皇第十二代景行天皇四十年十一月、天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が御東征の時、走水の海で暴風雨に遭い お妃の弟橘姫(おとたらばなひめ)の犠牲によって、無事上総の地に着かれ、ここ宮山台において、お妃を偲ぴ、風の神志那斗弁命(しなとべのみこと)を祀ったのがはじまりという。 従って、御祭神は志那斗弁命であるが その後景行天皇がこの地を訪れられて、日本武尊の霊を祀られ、更に人皇第十三代成務天皇五年九月、このあたりを支配していた上海上(かみつう なかみ)の国造(くにのみやつこ)の忍立化多比命(おしたてけたひのみこと)が天児屋根命(あめのこやねのみこと)と塞三柱神(さえのみはしらのかみ)を合祀し、又人皇第十七代履中天皇四年忍立化多比命五世の孫の忍兼命(おしかねのみこと)が 大雀命(おおささぎのみこと:人皇第十六代仁徳天皇)を祀ったといわれるから、風の神を主神として、外に数柱の御祭神が合祀されているわけである。 これら御祭神の御神徳は、姉埼神社への尊崇を高め、元慶元年(八七七)には神階も正五位上にまで進み天皇の勅願所ともなった。又『延喜式神名帳』にも、上総国の五社の一つとして載せられ、いわゆる式内社(しきないしゃ)として有名になった。 |
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一.その後、天慶三年(九四〇)には、平将門追討の析願が寄せられ、神社へ刀剱一振りが奉納された。 ついで、源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、杜前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願したという。 更に関東が徳川氏の勢力下にはいるに及んで、慶長二年(一五九七)には松平参州侯が、慶長六年(一六〇一)には結城秀康が 共に社殿を造営したり、神馬(じんめ)を奉納したりした。なお 元和四年(一六一八)十一月には、この地の領主松平直政が社領三十五石を寄進し、蘆屋原新田五町六反二畝五歩をこれに充てた。 明治維新後、木更津県が誕生するに及んで、姉埼神社は県社となり、千葉県となっても引き継がれた。 一. 姉埼神杜の御祭事は、正月の元旦祭、二月の節分祭、夏季(七月二十日)と秋季(十月二十日)の例大祭などである。 この外、古来流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われたが 現在は式典だけが行われている。 |
一. 又特殊神事として、 「牛ほめ」の神事があったが、今は中絶されており、いつの日かに復活が望まれる。この「牛ほめ」の神事とは、二月十一日に行われたお田植え祭りの神事の中で行われたもので、誠に珍らしい行事である。お田植え祭りは、 「お宮の種まき」ともいわれ、当日は早朝拝殿にこもを敷き、牛になぞらえた高麗狗(こまいぬ)を安置し、鍬形(くわがた)と種形(たねがた)に切った餅を作り、十時ごろから祭典を行い、そのあとで「牛ほめ」の神事があった。 この「牛ほめ」のことぱには、「目を見て候えば、銅(あかがね)の鈴を張りたるが如し」とか「耳を見て候えば、琵琶(びわ)の葉をならべたるが如し」とか口・角(つの)・背・尾・爪などを次々とほめたという。牛をほめて、農業の振興や五穀農穣・産業の隆昌などを願ったものと思われる。 一. 姉埼神社には、境内に松の木が一本もなく、氏子の家のお正月には門松を立てない。これには、特殊な伝承があって、御祭神の志那斗弁命が かつて夫の神である志那都彦命(しなつひこのみこと)に大変侍たされたので、 「待つ身はつらい」といわれたことから、「待つの音通の「松」を忌むようになったというのである。 なお、姉埼神社は縁結びの神といわれ、かつてその象徴として、神社の大鳥居の前の夫婦杉(めおとすぎ)があった。これは二本の杉が、途中で一本の枝によって連結されていた。これに巧みに紙を結びつけると良縁が得られるといわれた。 以上のように、数々の伝承や神事を持つ姉埼神社は、産土(うぶすな)の神として、御神徳益々明らかに輝き、御神威が弥々光り増し、このたび新装成った御神殿に、氏子を初め、万民」こぞって崇敬の誠をささげるものである。 (菱田 忠義) |
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千葉県市原市姉埼 姉埼神社社務所 電話 〇四三六(六一)五〇四〇 |
<松の嫌いな明神さま>
姉埼神社は景行天皇四〇年(一一〇年)十月、日本武尊御東征の時舟軍の航行安全を祈願 し、風神志那斗辨命を現在の丘上(太古丘の下は海で岬を形づくっていたと推定される)に祀ったのが創祀といわれる。
当神社の森は古来鬱蒼たる老杉に覆われて、その森厳さと、美しい林相を近郷に誇って来たものであり、氏子農漁民は朝夕この杜を仰いで心にやすらぎを得て夫々の生業にいそしみ、又幾年かこの郷土を離れて帰郷した人達は、駅に降リ立って心のふるさとである明神の杜に接し、更めて温い故郷の空気に包まれたという感慨を語っている。記録によればこの杉は慶長、寛永、慶安年間に苗木が献納され、その数約四、〇〇〇本とある所から推して、樹令は大体三五〇年~三七〇年のものが主力であり この時期に既に成木となっていたもの何本かが御神木を含めて樹令六〇〇年~六五〇年を数えるものと惟定される。
明神とは創祀も古<、由緒も正しい神杜に対し、中世以降授けられた称号であり この地区に於て明神といえば当神杜を指すものである。尚神佛習合現象のあらわれた十一世紀の頃から御祭神に奉られた権現号も又神号の一つである。
当社の境内林に松樹の無い事、又この氏子区城内では正月に松を飾らないことについて、氏子外の方々から奇異の眼を以って見られ又質問される事が屢々ある。
我国には古来言葉(ことば)に何らかの霊力があるとする言霊(ことだま)の信仰がある。例えば稲荷神社の御祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)であり、この神は元釆五穀と蚕桑を司る神であるが、「いなり」という語から、その場所に固定して成功する「居成り」という信仰に転化し、邸内社として各家の守護神として、又商業の神としてデパートの屋上等に祀られる様になって来たものと思われる。又五星の先負、佛減、或は数字の四(死) 九(苦)等が慶事の際忌まれる事等我々の日常生活に定着しているものは極めて多い。
姉埼神社の御祭神志那斗辨命は女神であり 夫神は島穴神杜の御祭神志那津彦命といわれて居る。その時代狩猟に出立つ夫神を門べで、馬の口輪を執って、その鼻づらを目的地の方に向けて送ったものと思われる。はなむけという語はここから出たのではないかと推察される。大国主命の妃須勢理姫命が旅に出た夫神の帰りを待ち、空閨をかこって歎(なげ)いた歌に「八千矛の神の命(みこと)や、我が大国主、汝(な)こそは男にいませば 析見る嶋の岬々 かき見る 磯の岬落ちず 若草の 妻持たせらめ 我はもよ 女にしあれば 汝除(なそ)きて 夫(つま)は無し 汝除きて 夫はなし」云々という長い歌が古事記に載っているが、この歌の如く当神杜の御祭神も又、いつ帰るとも知れぬ夫神を待ちわび、待ちこがれ、「待つは憂きものなり」と歎かれ、「待つ」は「松」に通ずる所から、この郷に於ては古来松を忌むと書かれている。この伝説による風習が遠い祖先から伝承され、この氏子区域内個々の家庭に定着しているもので、約七千坪の境内に一本の松樹を見ない事と合せて、各戸の門口には竹と榊を組み合せた門飾りを立て、来る年毎の新年を祝い 現在に至っているものである。私見として、用材として役立つ松を若木で採取するより、雑木の榊を用いた方が国策にも副うのではないかと考察するので、この様な伝説による特異な民間神事は後世に伝え残して行きたいと思う。冒頭に述べた境内林の杉はここ数年来衰退枯死甚しく、無残な現状であり、この対応策として、植林、境内地の環境整備等今後三ヶ年計画を以て事業実施を行う予定であり、現在その計画を策定中であるが、元の林相に復元する為には少くとも百年単位の長期計画が必要であろう。 (宮司 海上信久)