鶴牧藩(つるまきはん)

江戸時代後期に安房国北条より水野氏が姉崎に転封し「鶴牧藩」を開いた。 鶴牧藩は市原市内で幕末まで続いていた唯一の藩であったが、明治維新の廃藩置県により廃藩となった。

水野家は徳川家康の生母伝通院(お大の方)の生家であり、分流には鶴牧藩、菊間藩、下総結城藩、出羽山形藩、紀伊新宮藩など、多くの親藩を出した名門である。

鶴牧藩と名付けたのは、水野氏の江戸屋敷が早稲田鶴巻町(今の東京都新宿区)にあった事に由来する。
藩庁は現在の姉崎小学校(右の写真)の敷地内にあり、其の場所には記念碑が建てられ、周辺には大手橋等の当時を偲ばせる地名を残している。

鶴巻水野家は忠韶(ただてる)、忠実(ただみつ)忠順(ただより)と3代続き、この間、学問の振興に力をいれるなどの仁政を敷いた。
 中でも、好学だった忠順は藩士たちに文武両道を諭し、藩校の修来館を開き、内容に不満であった「史記評林」の改訂を儒学者で館長の田中篤実、副館長の豊田一貫らに行わせた。
 30年間の歳月と、小藩には分不相応と思われる巨額な藩費を投入し、血のにじむ努力の結果、明治2年に「鶴牧版史記評林」を完成し、当時の学者から賞賛を受け、また明治天皇に御前開講を行った。

写真は「修来館」「史記評林」の記念碑とその拓本。

藩校「修来館」
 文武両道を重視し、文には算法、筆道および習礼の三科があり、武には弓、馬、槍、剣、砲、柔、棒、縛および遊泳術の九科があった。 漢学を教え、教科書には四書五経のほか朱子、小学などが用いられた。
士族、卒(足軽)の子弟が八才になれば必ず就学させ、二十五才で卒業した。 生徒概数は70〜120名程度であった。

「略歴」

文政10年(1827)
安房北条藩主の水野忠韶が安房から姉崎に居所を移し陣屋を構える「鶴牧藩」(1万5千石)
文政11年(1828)
忠実(忠韶の養子 酒井忠徳の子)家督を継ぐ
天保10年(1839)
忠実 西丸若年寄に就く
天保13年(1842)
忠順(忠実のニ男)家督を継ぐ
慶応 3年(1863)
徳川慶喜 大政奉還元
明治 2年(1869)
「鶴牧版史記評林」完成 忠順 鶴牧藩知事に任ぜられる>
明治 4年(1871)
廃藩置県により「鶴牧藩」廃藩


  市原教育委員会 「市原のあゆみ」 より