明治政府は欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗するために、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指したが、実情は中央政府が徳川幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、各地では幕府時代の大名による統治が存続していた。
これを新政府の統治下に置くため、明治2年(1869年)7月に版籍奉還を命令し、明治4年(1871年)7月には、廃藩置県を行った。
版籍奉還
明治2年(1869年)7月 明治新政府が布告した、旧藩主の土地(版)と人民(籍)の統治権を朝廷に返させる行政改革。
大久保利通らが新政府樹立の中心であった、薩摩・長州・土佐・肥前4藩主に版籍奉還を願い出させ、他の藩主も続々とこれに続いた。
なぜ藩主は自らの統治権の放棄を意味する版籍奉還を願い出たのであろうか?
勝田政治著『版籍奉還』には当時の状況が著されているので紹介をする。
前述の4藩主による「版籍奉還の建白書」には
・王土王民論からの領地・領民の返還とともに
・天皇による
再公布の請願がなされている
「願くは朝廷其宣に処し、其与ふ可きは之を与へ、其奪可きはこれを奪ひ、凡列藩の封土更に宜しく勅命を下し、これを改め定むべし。」
戊辰戦争によって威信が低下し動揺していた藩主は、従来の地位を維持しようと版籍奉還により天皇権威による身分保障を賭けたのであった。しかしながら、新政府は領地の再交付はしなかった。藩主は失望したが「王土王民論」を受け入れたことにより、藩主は領有権を主張できなくなったのである。
政府は、藩主をそれぞれの藩の知藩事(藩知事ともいう)に任命するとともに、新たに華族という称号をあたえ、知藩事の家禄を収入の1割とする身分保障を行つた。
廃藩置県
明治4年(1871年)7月 明治新政府が布告した、藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化する行政改革。
中央集権化が進められるなか、諸藩の財政は苦しくなる一方であり、窮乏のあまり廃藩建白や知藩事辞職願を出す藩主が現れて来る。
こうした状況下で山県有朋らは薩摩・長州両藩のみの決定により、両藩でも西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の主導で廃藩置県を断行し。何も知らされていない他藩にとっては全くの「寝耳に水」の詔書であった。
しかし、このときも大きな反乱はおきていない。
これも前述の『版籍奉還』によると
・版籍奉還の規制力:藩主は版籍奉還時に、廃藩置県を承認している
・親兵(政府直轄軍)の威圧力:西郷が統率する薩摩・長州・土佐軍が後ろ盾にいる
・知藩事および士族への優遇策:知藩事は首都華族へ華麗なる転身、士族は収入を保証
・知藩事自身の反乱防止策:旧知藩事への恩義から反乱できない
また、同書の「外国人がみた廃藩置県」の項には廃藩置県の意義が紹介されている。
『日本政府は藩ならびに大名の身分の撤廃を発布した。この法令により、三〇〇年以上にわたって統治者だった人々は平民の身分に引きずり下ろされた。そして彼らの領地は直接政府に併合される。もはや天皇を通さない貴族階級および宗旨はなくなった。』:ニューヨークタイムズ
『大名の封建権力の突然の崩壊はこの上なく完全な変革であった・・・驚嘆すべきは反乱の噂が出てくることではなくて、反乱そのものが起らなかったことである。』:ノース・チャイナ・ヘラルド

勝田政治著「廃藩置県」 2000年 7月 講談社