瓶塚
所在地:千葉県市原市今津朝山
(春日神社鳥居の前)


瓶塚 春日神社の杜(柵が瓶塚)
いわれ
国書に人皇十六代仁徳天皇の御代、土賊「蝦夷」が反乱し人々をくるしめたため朝廷はこれを鎮めんと将軍「田道」に派遣討伐を命す。
田道この地に武神を勧請奉斎し戦勝を祈願す。春日神社創祀の由来である。
田道善戦及ばず『伊侍の水門』(資料館 注:いしのみなと)で戦死、住民田道を収屍手厚く塚に葬り慰霊す。
後 蝦夷その塚を掘り起こすと中から大蛇出て土賊を殆ど咋い盡くす。「瓶塚」とつたえられる古跡なり。
この「瓶塚」に松と藤とありて年々枝葉繁茂し花爛漫なり。
以下略
=>神社改築記念碑より
「瓶塚」まつわる古歌
朝山とめぐりたづねて来てみれば
松にからまぬ瓶塚の藤
=>瓶塚 解説碑より
資料館 注
『伊寺(あるいは侍)の水門』(いしのみなと)が何処であるかには、主なもの三つの説がある。
1.上総夷隅郡(夷隅港:現 勝浦港)
2.陸前国北上川の河口(現 石巻港)
3.常陸国茨城郡夷針郷
このなかで石巻港説が有力
=>『房総叢書』昭和47年 千葉県郷土資料刊行会 より
春日神社で戦勝祈願をした田道の慰霊のため「瓶塚」を築いた。 これに大蛇伝説が結びついて当地の伝説となったと思われる。
ここの藤は松に絡まないとか、大蛇ならば絡むのが普通では・・・!?
田道について
その1
日本書紀によると、仁徳53年、上毛野田道(かみつけのたみち)は新羅を攻めて勲功があり、続いて55年に蝦夷征伐に向かわされるが、伊峙水門で戦死する。使者が田道の腕輪(手纏)を彼の妻のために持ち帰るが、妻は悲しみの余り縊死する。その後、蝦夷たちは田道の墓を堀ったが、中から大蛇が現れて蝦夷たちに噛みつき、その毒に当てられて
多くの蝦夷たちが死んだので、土地の人々が恐れて秋田県鹿角猿賀野に祀った。
青森県南津軽郡尾上町猿賀の猿賀神社の社伝によれば、その2百年後に洪水があった時、白馬に跨った田道が流木を舟にして当地に流れ着いたとのこと。さらに2百余年後に坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征伐で苦戦に陥った時に、田道の神霊が現れ大勝に導いたので、此の地に祠を造って祀った。それを桓武天皇の奏上し、勅許により大同2年(807年)奥州猿賀深砂(しんしゃ)(神蛇)大権現として勧請した。
以下 略
=>サイト「歴史の箱庭」より
その2
穀町の西方蛇田村禅昌寺のほとり,仙台への通路に沿うて老杉2株の下に古墳がある。田道将軍の墳であると言い伝えられている。
今から1500年ばかり前,仁徳天皇の御代蝦夷が叛いた。蝦夷というのは,今のアイヌ族であって,当時勢いが頗る盛んで,朝廷の命令がほとんど行われていなかった。この地方にも牧蝦夷がいて,赤間黒間というものが頭だったということである。
朝廷では,上毛田道(かみつけのたみち)に東夷征伐を命ぜられた。将軍は当代の名将である。これより先新羅が貢物をかいた時,詔(みことのり)を受け精兵を率いて征伐に向かい,堅城に立ち寄っていた新羅軍を一挙に撃ち破り,四邑の人々を虜にして帰った名将である。
将軍は,風雨に悩まされながら,海路はるばる奥地の伊寺水門(いしのみなと)即ち我が石巻にやってきた。蝦夷は,けわしい山坂道に待ち伏せし遂に之をとり囲んでしまった。さすがの名将も戦利あらずして戦死した。
死に際して,「我しせば鬼となり必ず朝敵を撃ち身の辱を雪がん」と。又口占して,祝うなりわがことぶきは千代を経て蝦夷のなまずをなめてうたはん,従者の王鉾という者が、ひそかに将軍の屍を抱いて他の所に移し自分は溺れて死んでしまった。
後蝦夷が之を憐れんで墓を作って納めた。ところが,蝦夷の頭が大いに怒って,部下をひきつれてきてその墓をあばいた。すると墓穴の中から大蛇がのろのろ現れて,鎌首をもたげ,大きく開いた口からはこのような舌をいらめかし,らんらんたる眼でねめ廻した火と思うと,忽ちあばれ出して,片端からかみついていく。かまれない者も毒気にあたってばたばた倒れる。ただ3人墓を造ったものだけは助かったという。
これを聞いた蝦夷どもは,おそれて平伏してしまった。時の人は「死よく仇に報ゆ」といってほめそやした。
それから1400余年たって享和の年,禅昌寺の住職が庚申の碑を建てようとして,村人と蛇壇といわれて居る傍を掘ったら,小さな蛇が出てきてどこともなく走り去った。やがてかちりという物音がした。掘ること30糧余りにしてあらわれ出たのが,田道公の碑であった。縦1米,横30糧,碑面には
霊蛇田道公墓(くしひのおろちたみちきみのはか)
と,古い文字で彫ってある。左方の文字によって,彼の伊寺水門の戦で皇軍の勢いが振るわず,将軍まで戦死してしまったので,朝廷ではいろいろ論議していた時,袖蛇が霊をあらわにしたために多くの蝦夷がおそれ服して,東方が安らかに治まったから,朝廷では,これを嘉(よみ)し,その功を彰すためにこの碑を建てたものであろうといわれる。
今は,台石のみ安置して,碑は禅昌寺内に保管してある。祭りは毎年歴6月25日に行われる。
=>サイト宮城県石巻市立蛇田小学校 より