
江戸時代の初め、十三年間という短い間でしたが姉崎に『姉崎藩』が置かれていたことをご存知でしょうか。
「関ヶ原の戦いに勝利した家康は、味方した大名への加増、徳川一門の取り立てを行いました。
家康の第二子秀康系松平氏を取り立て、成立したのが『姉崎藩』です。
藩主は家康の孫の松平(越前)忠昌、直政と徳川家の傍系であり、両藩主とも姉崎藩を出発点としてそれぞれ大藩へと転封していきました。
慶長十二年(1607)十一月松平(越前家)忠昌(ただまさ)が新恩一万石を下賜され、
上総市原郡姉崎村に陣屋を構えた。 忠昌は徳川家康の次男結城(越前松平)秀康の第二子で、慶長二年に大阪で生まれ幼名を虎松といった。
同五年に父秀康が越前北庄(のち福井)藩六十七万石を下賜されたとき、これに従い北庄に住した。
同十二年に忠昌は家康の招聘により駿河駿府城に参上して拝謁し、「早く江戸にくだり将軍に見へ奉るべしとの仰蒙り」(『徳川実紀』)将軍秀忠に拝謁した。 このとき姉崎藩を下賜されたのである。当時忠昌は十歳であった。
同十九年の大阪冬の陣で軍功をあげ、翌元和元年(1615年)従四位下侍従に叙任され、秀忠から諱の一字を賜り伊予守忠昌と名乗った。同年大阪夏の陣にも参戦し、「大手口の一乗し」という手柄をあげた。 同年十一月に二万石を加増され常陸下妻藩三万石に移された。ここに、姉崎藩は一時廃藩となった。
忠昌は下妻藩三万石拝領以降、元和二年に信濃松代藩十二万石、同四年に越後高田藩二十五万石余、そして寛永元年(1624年)に北庄藩改め福井藩五十万石に入封した。
廃藩からの四年後、
元和五年(1619)十二月忠昌の弟(秀康の三男)松平直政を新たな領主としてむかえた。
直政は慶長六年近江中河内で生まれで河内丸と名付けられ、父秀康の居城北庄に移り国松丸と改めた。同十六年二条城で家康に拝謁し、このとき兄忠直から諱の一字を授けられ直政と改めた。大阪冬の陣、夏の陣に参戦し兄忠直、忠昌とともに軍功をあげた。
元和四年の十七歳のときはじめて参府して将軍秀忠に拝謁し、翌五年六月に従五位下出羽守に叙任され、この年の十二月一万石を加増され、二万石をもって兄忠昌の旧領姉崎藩に入封した。
元和九年に直政は従四位下に昇り、翌寛永元年六月に兄忠直の旧領のうち三万石を下賜され越前大野藩五万石に転封した。 ここに再び廃藩となり、以降藩は置かれなかった。
直政は大野藩は医療以降、寛永十年に信濃松本藩七万石、同十五年に出雲松江藩十八万六千石に転封した。
姉崎藩は松平忠昌の慶長十二年から元和元年までの八年間、その弟直政の元和五年から寛永元年までの四年半、合わせて僅かに十二年半であったが、名門の松平(越前家)が在藩した。
「略歴」
慶長12年(1607)
松平忠昌(徳川家康の孫、結城秀康(越前松平)の第2子)姉崎村に陣屋を構える。「姉崎藩」(1万石)
元和元年(1615)
忠昌 常陸下妻藩3万石へ転封
一時廃藩となる
元和5年(1619)
松平直政(忠昌の弟)入封 2万石
元和9年(1924)
直政 越前大野藩5万石へ転封
「姉崎藩」廃藩

参考文献
『房総諸藩録』 須田茂著 1991.4 崙書房