真里谷氏(まりや)

真里谷氏は武田信玄を生んだ甲斐武田家と先祖を同じくする。
武田氏十代武田信満の次男信長が康生二年(1456年)古河公方足利成氏の命を受けて上総に侵入し、真里谷城、庁南城を築いた。これが房総武田氏の始まりであり、信長は房総武田の祖と言われる由縁である。
 家紋:割菱(わりびし)
信長は孫の信興、道信をそれぞれ真里谷城、庁南城の城主とした。このとき信興は真里谷と改称して真里谷氏が誕生した。
房総武田氏は久留里城、峰上城、佐是城、佐貫城、大多喜城、造海(百首)城、笹子城、中尾城、椎津城を築きその勢力を次々と拡大し、房総に一大勢力を築いた。
しかし、関東に進出を狙う安房里見氏と北条氏の両氏の狭間に位置し、双方の侵略に揺れ動いた。更に、里見方の真里谷宗家と北条に応じた信隆との内紛が生じ、真里氏の衰退に拍車をかけた。
椎津城主信政は、足利義明の率いる真里谷信応らに破れ自害し、真里谷城主信高は天正十八年(1590年)徳川軍に真里谷城を追われ下野・那須家へ落ち延びた。
ここに130年続いた真里谷氏は滅び去った。
真里谷氏の菩提寺は真里谷・真如寺となっているが、墓は見つかっていない。

略歴
真里谷信興(1433〜1511年代)真里谷城初代
真里谷城初代城主、武田改め真里谷と改称
真里谷信勝(1448〜1523年代)真里谷城2代
信興長男、永正十四年(1517年)信勝は里見氏と同盟を結び、足利義明を担ぎ宿敵であった小弓城原氏を攻落し、「小弓公方」の創立する。また、鹿野山神野寺の再建を行う。
真里谷信清(?〜1534)真里谷城3代、大多喜城主
信興次男、信勝に実子が無かったため家督を継いだが、信勝に長子信保が出来たため家督を譲り、大多喜城を築きこれに拠った。
真里谷信保(1478〜?)真里谷城4代
信勝長男、足利義明を担ぎ、北条と敵対する。
真里谷信隆(1496〜1552)真里谷城5代椎津城主
三代信保の子信隆は庶子であったため、嫡出信応と家督相続で争い、信隆は真里谷を信応に譲り、子信政とともに椎津城に移った。
天文六年(1537年)義明は「信隆が北条に通じている」と疑い、真里谷信応、里見氏を率いて椎津城を攻める。 信隆は椎津城を捨て造海城で応戦したが北条を頼り逃げのびた。この造海城の戦いで、和歌百首を詠んだら開城するとの和睦が成立たため造海上を百首城と呼ばれるようになったと云う。 第一次国府台の戦いで義明は壮絶な最後をとげ、北条氏は勝ちに乗じ房州境まで追撃を行い、信隆は真里谷城主に帰り咲いた。
真里谷信政(1496〜1552)椎津城主
信隆の子、北条氏に応じていたため、里見軍(里見、土岐、正木、酒井氏ら)に攻められ、北条氏の援軍と共に戦ったが椎津勢は大敗し自害して果てた。
真里谷信助(〜)真里谷城6代
信保の弟、信隆が信応に家督を譲ったが信応が幼いため補佐する。
真里谷信応(〜)真里谷城7代
里見氏に従軍し第二次国府台の戦いに出陣するが、破れ弟信秀ほか多くの家臣を失う。
真里谷信高(〜)真里谷城8代
信応の子、豊臣秀吉は北条氏小田原城を攻め落し、徳川家康は房総の掃討をおこなった。これにより信高は真里谷城を捨て、下野・那須家に落ち延びた。
ここに真里谷氏は潰えた。
真里谷氏系図
      (甲斐武田宗家)
 信満−−信重−−信守−−信昌−−信縄−−信虎−−信玄−−勝頼 
    l      l
    l      l---信清
    l(房総武田祖)    真里谷
    l−信長−−信高−−信興−−信勝−−信保−−信隆−−信政
    l      l     l     l     l      l
    l      l     l     l     l−信助  l−信応−−信高
    l      l     l     l     
    l      l     l     l     l−信次
    l佐貫城主l     l     l     
    l−信広  l     l     l     l−信秋
          l     l     l     大多喜城主
          l     l     l−信清−−直信−−朝信
          l     l庁南武田氏
          l     l−道信−−宗信−−吉信−−清信−−豊信
          l峰上城主 
          l−信武−−氏信−−義房
          l久留里城主
          l−信房−−武定−−真勝
                l
                l--信恒----弘恒

  参考文献
   「房総武田氏の興亡」 府馬 清著 崙書房 1979年
   「市原のあゆみ」 市原市教育委員会