『白幡六郎』

椎津城最後の城将
その墳墓・塩煮塚が白塚の地名の由来となった
椎津・城山の殿様狐の民話になった
山新・白幡神社に祀られている
その人・・・白幡六郎を紹介します。
白幡六郎に関する資料は『資料室』を、関連記事は『展示場・遺跡・椎津城』をそれぞれ参照下さい。
<白幡六郎について>
椎津城の歴史は北条氏、里見氏の関東における覇権争いの歴史であった。
戦国時代、上杉謙信と武田信玄が川中島で決戦をしていたとき、関東では小田原北条氏と、安房里見氏がともに関東の覇者にならんとしてその勢力を拡大していった。 そして両者は上総・下総で激突し、椎津城もその荒波に揉まれ北条方・里見方との間を揺れ動いた。
椎津城での戦いは7回に及んだが、白幡六郎は椎津城最後の城将であり、椎津城の陥落と共に白幡六郎の生涯も終えた。
永禄七年(1564年) 二次国府台の役において里見軍を破った北条軍は、上総西北部に攻入り、椎津城を守る里見氏木曾左馬充を敗走させ、家臣の白幡六郎を椎津城の守りとした。
天正十八年(1590年) 豊臣秀吉は北条・小田原城攻めを行なう一方、浅野長吉を将として上総の地を攻略させた。このとき椎津城将・白幡六郎は城外に打って出て奮戦したが及ばず、椎津城は陥落し、白幡六郎は白塚村まで逃げ延びたが、ここで自刃して果て、遺骸はこの地に埋葬された。
主家・北条氏も秀吉に破れ、戦国時代の終焉を迎えるこのとき、椎津城も永久に歴史の世界から消えていった。
<塩煮塚について>
天正十八年(1590年) 豊臣方の浅野長吉等の軍により攻略された、椎津城々将白幡六郎は白塚村まで逃れたが、この地で自刃し、遺骸を葬ったのが塩煮塚と云われている。
市原郡誌によるとこの塚は、高さおよそ5b、周囲56b、頂上は老松に覆われていたと云う。
明治四十四年 JR内房線(当時は房総西線)の工事により塚は消滅したが、塩煮塚の地名が字として残っている。
(左図:千葉県姉崎町土地宝典 帝国市町村地図刊行協会 昭和三十四年
五井との境、嶋穴神社附近)

上:現在の塩煮塚周辺の風景
正面に嶋穴神社の杜
<馬塚について>
また、白幡六郎が乗っていた馬も近くに埋葬され、ここを「馬塚」と呼ばれていたと云うが、ここも消滅してしまった。
馬塚は柏原・後原にあったと云う。
<白幡神社について>

白幡六郎が自刃したとされる白塚の隣の山新に、白幡神社がある。ここには祭神として、仁徳天皇、誉田別命、白幡六郎が祀られている。
山新地域の氏神様として、また、殖産興業、開運の神様として信仰を集めている。
境内には「山新公民館」が建てられている。
<六郎の口伝>
数年後北条氏によって椎津城は再び奪還されて、城は家臣の白幡六郎に与えられています。
白幡六郎はここをよく守り、良い治世を行ったので領民からしたわれ、数々の民話や風習の原点になっています。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の北条氏の征伐と運命を同じくして、椎津城も落城し、白幡六郎は自刃して果て、戦国の山城椎津城はついに歴史からその姿を消しました。
おさん狐と城山の殿様狐のはなし
山王山に住むおさん狐と城山に住む殿様狐(白幡六郎の化身?)の恋物語。
二匹の狐が人に化けて村人の盆踊りに参加して恋に落ちたが、こころない猟師が城山に住む殿様狐を殺してしまったためにたたりが生じ、五日目ごとに狐火が城山からハシリ、猟師の家を焼いていくーーーというストーリー。
地元民の白幡六郎への郷愁と、たたりに対する畏怖がともに感じられる民話です。
椎津の空荼毘・・・・・じゃらぼこ
白幡六郎が戦いに負けて白塚で自刃して果てた後も、椎津の領民には生死を知らされませんでした。真里谷に逃げて農民になったとか、つかまって殺されたとの噂が領民達に広まりました。
白幡六郎は領民の信望が厚かったため、領民はとりあえず葬式をだそうと考えましたが新しい領主が認めるはずはありません。そこでお祭の偽装をして葬式ごっこをしたのです。
それが今に伝わる椎津野から荼毘で、偽装のお祭がじゃらぼこです。
なお、地元では白幡六郎を椎津小太郎と美化して民話化しています。また、山新に白幡六郎を祀った白幡神社があり、白幡六郎が埋葬された塚を白塚(今は喪失)といって地名の元になっています。
姉崎 不思議発見の旅! 市原市商工会議所姉崎青年部 より
図は椎津小太郎像 広瀬蘆竹画 古今記録 より