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於大、お大とも書く。享禄元年(1528年)刈谷(愛知県)の緒川城主水野忠政と御富の方(華陽院)との間に生まれる。 忠政は10男8女のをもうけ、鶴牧水野家は9男忠重の末裔にあたる。
於大は十四才で岡崎の松平忠広の嫁ぎ,竹千代(後の家康)を生んだが、忠政の嗣子元信(於大の兄)が松平に叛き織田氏と通じたため、隣国の今川氏の嫌疑を恐れた忠広は於大を別離し、於大は竹千代を残し岡崎を去った。

天文十六年(1546年)阿久比(あぐい・愛知県)の久松俊勝と再婚し、3男3女をもうけた。
竹千代はその後、今川、織田の両家で人質生活をおくるが、於大は竹千代を案じ何くれとなく贈り物をするなど気を配っていた。

永禄三年(1560年)織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦では、夫俊勝と子元康(竹千代の元服後の名)は敵と味方の関係であったが親子の対面をはたしている。 元康が敵方の阿久比城を訪ねたものであるが、これには俊勝の計らいと信長の黙認があったものと思われる。
信長の勝利の結果、今川側の元康の身を案じた於大は俊勝と相談し、「元康は信長殿にはさからいませぬ」と信長に元康の助命を願い出てた。 元康も今川の先鋒として入った大高城から兵を引き上げ、また信長も敢えて元康を追うことはしなかった。

慶長七年(1602年)七十五歳で死去・『伝通院』として墓所は東京・小石川の伝通院、にあり、遺髪は阿久比・洞雲院、岡崎・大仙寺に分納されている。



引用文献:
   中埜総合印刷株式会社ホームページ「燦」より
   画像は「母情仏心」−於大の方−日本美術院院友安沢阿弥作(部分)