伝 明智十五郎の墓

  
 明智家の家紋「桔梗」
 「明智光秀」の名を聞くと多くの人達は、「謀反人」「主殺し」「三日天下」などの汚名を思い浮かべ、そして、「本能寺を奇襲して織田信長を討った、あの光秀」だから・・・・と続けるであろう。  一方、これは封建制度のもとで押しつけられた評価であり、「戦国時代の武士が天下を望むのは当然で、謀反人は数多くいる」「信長の冷酷・残忍な性格にたいする正当防衛だ」等々、光秀を再評価すべきだとする考え方も定着している。
 『光秀は秀吉との山崎の合戦に敗れて坂本城への敗走の途中、落ち武者狩りの土民に襲われ非業の死をとげ、 そして明智家は坂本城の落城とともに滅びた』というのが通説である。(光秀の嫡子十五郎は亀山城で死んだとも説もある)
一方、死んだのは替え玉で実は落ちのび、天寿を全うしたという異説もあり、
 『光秀は生き延び、天海僧正がそれである』
 『嫡男の十五郎光慶(みつよし)は落ち延び、京都の妙心寺で得度して玄琳と名乗り、父の五十回忌法要を同寺で営んだ』
等が代表的なものである。
 
 市原市不入斗(いりやまず)に『光秀の側室の墓』と伝わる墓がある。 
市原市の郷土史家 大室晃氏は「伝明智光秀側室の墓」(市原地方史研究)のなかで、『これは光秀の側室ふさの方、光秀の嫡男十五郎そして十五郎の妻ツ子(つね)の墓であり、ふさの方と十五郎は不入斗まで逃れ、この地で生涯を送ったと』推論されている。
 

 明智十五郎光慶とは
明智光秀 ―  |― 長女(明智秀満の妻)
        |― |
   煕子 ―   | ― 二女(織田信澄の妻)
          |
          |― 三女(細川忠興の妻)
          |  
          |― 長男:十五郎(光慶)
          |    
          |― 次男:名不明
    
、明智光秀は清和源氏の土岐氏の支流明智氏の生まれで、美濃国の出身とされていますが、光秀に関する信憑性が高い記録が殆どなくその生涯は謎が多く、行年でさえ通説では行年55歳とされているが、「明智軍記」(誤りが多いとされている)が55歳と記述しているだけで、その確証はないほどである。
家系についても同様であり、高柳光寿氏は著書「明智光秀」で「特に系図については信用できるものは全くない」とまで言い切っています。
光秀の妻は妻木勘解由左衛門範熙の女煕子(ひろこ)であり、子供で確実視されているものは、男子は嫡子十五郎、他1名(名不明)の2名、女子は明智秀満の妻、織田信澄の妻、細川忠興の妻の3名である。(左表)
嫡子十五郎を通説では光慶(みつよし)としているが、光慶は「明智軍記」に現れるだけであり信憑性には疑問符がつけられている。
十五郎は、本能寺の変後は坂本城で西国防備にあたったが、坂本城で自害した(亀山城で自害との説もあり。)とされている。

十五郎に関する記録も少ないが、以下が知られている。
・本能寺の変の直前に愛宕山で行われた威徳院連歌での結句を詠んだ
・光秀が細川親子への勧誘の手紙の中で「近畿を平定後は十五郎に天下を譲り、自分は隠居する・・・」と記され
・フロイス(当時の日本での宣教師)の天正10年10月付の手紙に「坂本落城の際、明智の2子はそこで死んだという。長子は十三歳で、欧州の王侯とも見える優美な人であった。彼らは今日までも現れないから、噂通り死んだのであろうと思われるが、逃げたという者もある。」
と書かれている。


「本能寺の変」前後の光秀の動き<天正10年(1582年)>
5月
28日
29日
愛宕山参詣,、籤を引く
威徳院で百韻連歌
6月
           
 1日  亀山城を出発
 2日
 
本能寺を奇襲、信長自害
二条城を囲む、信忠自害 
 4日 近江・美濃を殆どを平定 
 5日 安土城に入る長浜・佐和山を占領
 8日 安土城より坂本城へ入る
 9日  細川藤考・忠興親子に参加を求めるが、親子は応ぜず
10日  河内に出兵、洞ヶ峠に陣し、筒井順慶の参加を待つ
11日 下鳥羽に移る
12日  信考・秀吉軍と山崎で交戦
13日  戦いに敗れ、坂本城に向かう途中、小栗栖で土民に襲われ自害
14日  明智秀満 安土城を出て坂本城へ入る
15日  堀秀政 坂本城を攻める 秀満、光秀の妻子及び己の妻を刺殺し自害


大室晃氏の推論
  氏は、不入斗にある「明智光秀側室の墓」と伝わる墓標と代々之墓地の実地調査、この墓を守り続けてこられた「光秀の子孫」の方々からの聞きとり調査等を行い、
『光秀の嫡子十五郎は坂本城落城の際、家臣齋藤利満・利治親子に守られて、側室フサの方とともに上総に向けて脱出した。 上総への途中、利満は江戸の戸塚っ原で捕らえられ殺されたが、フサの方は剃髪して尼姿となり逃亡したので助かった。 また利治とも別れ別れになってしまい、十五郎とフサの方は永藤の西光院に入り、利治は近くの片又木村に居を構えた。 
十四歳の十五郎はフサの方を「母上」と呼び親子を装い、この地で再起を期したが、上総の明智家が遂に武将として旗上げする日もないまま、明治維新を迎えた』
 と推論されている。

十五郎が逃亡したとする推論の根拠として
・高柳光寿著「明智光秀」に、フロイスの書状に「逃げたという者もある」との書かれている。
・桑田忠親著「明智光秀」に、光慶一人が坂本城でなく亀山城で殺害されたとある。
 (亀山へ走ったと見せかけて上総に逃げたのではないか。)
・外にも光秀の子孫であるとの伝承がある。
を示されている。

また、墓が十五郎のものであるとの根拠として
 ・土岐重五郎の名が刻まれている。(重五郎=十五郎)
 ・重五郎、フサの方の沒年が刻まれているが、寿齢に無理がない。
 ・難解な重五郎の戒名のなかに、光秀との関係を暗々内に示している。
 ・フサの方の法号は禅尼とあり出家したとの伝承と合致し、「明智」の文字が含まれている。
 ・重五郎の妻ツ子(つね)の戒名に「明」がある。
 等を示されている。


の大室説をもとに、酒井登志生氏は「ふさの方様」をいちはら昔話として記述しています。
『ふさの方様』(「いちはら昔話 女神様は松がきらい」より)
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天正十年(一五八二)のこと、明智光秀様は、京都の本能寺に、織田信長様を攻め、自殺させました。これを歴史上「本能寺の変」といいます。
「本能寺の変」の後、光秀様は、天下を取りますが、十三日めには
、信長様の家来の羽柴秀吉様にほろぼされてしまい、そこで、短い光秀様の天下のことを、明智の「三日(みっか)天下(でんか)」といいます。
光秀様は、敗走中、京都伏見の小栗栖(おぐるす)村で、落ち武者狩りの長兵衛という農民に、竹槍で突かれ、殺されました。
光秀様が討たれたというしらせは、近江坂本城の秀(ひで)満(みつ)様に伝えられました。秀満様は、光秀様の婿殿で、主の留守をあずかる城の責任者でした。
「もはやこれまで……」
秀満様は城に火を放ち、涙をのんで、光秀様の妻子を刺しましたが、長子の十五郎(じゅうごろう)光慶(みつよし)様だけはお手にかけず、物陰にお呼びして申しました。
「十五郎様は、上総に落ちのびて下され。万一のときはそうずるようにと、これは、お父君光秀様のご遺言でござる」
そして秀満様は、かたわらにひかえていた従者に申し伝えました。
「斎藤利満(としみつ)、利治(としはる)父子は、十五郎様をお守りし、ともに上総に落ちてくれ」
「はは……」
利満殿と利治殿の父子は、かしこまって、受けたまわりました。
「ふさの方様も、母君のかわりに、十五郎様とご同道下され」
秀満様は、側室のふさの方様にもそのように頼みました。
「かしこまりました。この身にかえて、若君をお守りいたしましょう」
ふさの方様は、きっぱりと答え、袖のうちに、十五郎様を抱きしめました。
「これで思い残すことはない。利治、介錯を頼む」
「ははっ……」
利冶殿は、しぼり出すような声音(こわね)で応じ、秀満様の背後に回ると、大刀を抜き放ちました。
お腹をひとなでした秀満様が、うっ、といって、小刀を突き立てるのと同時に、ごめん、と一言、利治殿が刀をふりおろしました。
「ウワーッ」
十五郎様が、ふさの方様の袖の中で、悲鳴に似た泣き声をあげました。
「泣いてはいけませぬ。若君は、いつか明智家を再興なさる身です。お気を強くお持ちなされ」
ふさの方様が、きびしい口調で申しました。
「若君様、奥方様、城が燃え落ちます。お急ぎを」
利満殿にうながされて、一行四人はひそかに城を抜け出しました。
上総をめざす四人は、苦難の道を江戸まで落ちて来ましたが、戸塚の原で追っ手につかまりました。
四人はよく戦い、ことにふさの方様の働きは目ざましく 小太刀をふるって、右に左に、敵を切り倒しましたが、多勢に無勢で、味方は、しだいに切り立てられていきました。
この戦いで、利満殿は戦死し、利治殿も行方知れずになりましたが、ふさの方様は血路を開き、十五郎様を伴って、脱出することができました。
ふさの方様は、追っ手の目をくらますため、髪をおろし、その衣手に十五郎様を庇いつつ、無事に上総の国につきました。
世は、秀吉様の時代となリ、明智家再興も夢となりましたが、十五郎様とふさの方様は、市原郡不入斗村で、本当の母子のように、睦まじく、平穏に暮らすようになりました。
やがて、十五郎様が、土地のツ子(つね)様をお嫁に迎えると、斎藤利治殿も駆け付けて来て、再会を果たすことができました。
ある日、十五郎様が、ふさの方様にたずねました。
「われらは、なにゆえ上総に参ったのでしょうか」
ふさの方様がお答えになりました。
「それはお父君のお心ですから、私にもわかりかねますが、明智家は源氏の一門ということで、昔、頼朝公が上総のお味方を頼られたように、お父君もそうなされたのでしょうか」
十五郎(重五郎)様と、ふさの方様、それに利治殿のお寡は,.いまでも不入斗にあります。
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【付記】
整形外科医師・信原克哉氏が『明智光秀と旅』を出版されてます。(ブックハウス・エイチディ  2005年)
この本は、氏が半世紀に亘って調査・研究した「明智光秀の生涯」を、実際に全国各地の光秀ゆかりの地を訪ねて撮影した写真とともに発表した大作です。
この中にも『明智光慶の墓(市原市不入斗)』として掲載されています。


参考文献
 「伝明智光秀側室の墓」 大室晃 「市原地方史研究 10号」
 「明智光秀」  高柳光寿著 吉川弘文館発行 平成8年10月
 「ふさの方様」 酒井登志生著  「いちはら昔話 女神様は松がきらい」 市原よみうり発行 1997年9月