頼朝伝説

治承四年(1180年)八月十七日、源頼朝は以仁(もちひと)王の平家追討の命旨に応じて兵を挙げ、伊豆目代平兼平を奇襲して倒しましたが、大庭景親等との石橋山の戦いには敗れて、真鶴岬より海路安房国へ逃れ、平北(へいきた)郡猟嶋に上陸しました。八月二十九日のことです。当時房総には上總権介平広常と千葉常胤が勢力を握っていましたが、両人共平忠常の子孫で、保元・平治の乱には、頼朝の父義朝に見方した立場にありました。
安房に上陸した頼朝は広常と常胤の許に使者を出し、参上するようにと促したとき、千葉亥鼻城の常胤は使者の安達盛長に対し、感涙さえ浮かべながら、一門の者を率いて参向する旨を述べたのに対し、長生郡一宮城(一説に夷隅郡布施ーー今の御宿町)の広常は、常胤と相談のうえ参上しますと使者の和田義盛に対し大変日和見な返事をしています。
このような関係から、頼朝は安房から下総への道は、広常の支配する東上總を避け、常胤が支配する西上總を選んだと思われます。
鎌倉幕府の事跡を知る上で最も重要な資料と言われている『吾妻鏡』によると
九月十三日頼朝は三百余騎の精兵を率いて安房国を発ち、上總国へ兵を進めましたが、 九月十七日下総国府で千葉常胤及びその子息などと対面しています。このとき常胤は、三百余騎を率いて参じましたが、その時までに既に平家方の下総目代を倒し、判官千田親政を捕虜にするなどの戦功を立てていました。 頼朝の喜びは格別のもので「常胤を以って父」とも称するほどでした。頼朝が鎌倉に幕府を築いたのも常胤の献言によるものです。 後年頼朝が守護地頭を置いたとき、常胤を以って下総の守護とし、上總国市原・武射二郡を加賜しています。

しかし『吾妻鏡』には、上總国のどこを通過したものか一片の記載もありません。
千葉に住む常胤が下総国府(市川)で会うのはおかしいから、下総国府は上総国府の誤りでは無いかと推察も加えられています。
小熊吉蔵氏は、「木更津から市原郡立野の切替家に寄宿し、上総国府を経て下総国に向って進軍しただろう」と推考されています。

市原市に伝わる数多い頼朝伝説のいくつかを紹介します。なお、頼朝伝説は、東房総を含めた房総各地に広く分布しています。

立野切替家に寄宿
安房から上総に入った頼朝は、飯富神社(袖ヶ浦町)で休憩しましたが、それより先は同神社の禰宜某に案内させました。某は三作(袖ヶ浦町)の人で附近の地理に明るく、立野の豪族立野右衛門とも親交ある人でしたから、頼朝を三作から立野に案内したとき、長右衛門を頼朝に紹介しました。長右衛門の家は屋敷も広く、上総国府の動向を察知するには都合の良い所でしたから、頼朝は長右衛門宅に数日滞在して、上総国府の様子を伺い、また情報の収集や軍勢の増強をはかりました。
頼朝は安房に上陸すると間もなく洲崎明神に詣で、武運長久を祈りましたが、立野に宿営すると間もなく長右衛門の裏山に洲崎明神の分霊を祀り、安房州神社と号し、剣を奉納して戦勝を祈願しました。
頼朝は長右衛門宅を発つとき、同家の竹林から竹を切らせて旗ざおの取替えを命じたことにより、後年長右衛門に切替の姓を与えました。
なお切替家の裏山に山見塚という墳丘がありますが、頼朝はこの塚の上に立ち、上総国府あたりを展望し、戦況を伺ったといいます。
切替家の安房州神社の御神宝は、頼朝から拝領したと伝える平安時代の剣であり、同家には頼朝が滞在中に使用したと言われる茶釜もある。

姉埼神社で戦勝祈願
頼朝は姉埼神社の神前に軍卒を整え、武運長久を祈願しました。これにより姉埼神社では流鏑馬(やぶさめ)の神事を行なうようになりました。

その他
嶋穴神社:参詣し、新田三十六石を寄進
白幡神社(君塚):頼朝はここで休憩した折、ここが日本武尊が祭神であり、里の名が「武里」であるきとを聞き、また、そこへ常胤の六男胤頼が二百余騎を率いて馳せ参じたのを喜び、「再び源氏の白旗を揚げることのできたのは、わが産神熱田大明神のお陰である。この塚の祭神は、熱田大明神の祭神と同体である。尊は伊勢国で薨去されたが、尊の御尊体は白鳥と化し、止まる所で八つの白幡となった。そこは私の生まれた所であろ。熱田明神の前に旗を揚げるのも、ここに揚げるのも同じである。必ず我軍は勝利を収めるであろう。」と白幡を奉納し、戦勝を祈願しました。 また、随従の兵士もうわざしの矢一筋づつ納めました。
これにより武の塚神社を改め白旗大明神と号し、里の名も喜び見る塚より喜見塚とし、後君塚に改めました。
飯香八幡宮(八幡):頼朝は飯香八幡宮に参詣し、イチョウ樹を逆さに植えて、「もし活着すれば、大願は成就されよう。」と祈願しました。これが社殿東側の逆さイチョウであるといいます。

市原市内で頼朝伝説のある社寺:不動院(豊成)、若宮神社(菊間)、日光寺(風戸)、宇佐八幡神社(二十五里)、佐是八幡神社(佐是〕蔵王権現(大久保) 等

参考文献
    「市原のあゆみ」 市原教育委員会 
    写真は「総合資料日本史」 浜島書店 1982年より