象山 大砲試射

江戸幕末 開国・尊王攘夷が叫ばれていたさなかの嘉永元年(1848年) 佐久間象山は松前藩のカノー砲(加農砲:口径十センチ程度)を鋳造した。 試作は出来たもののこれの試し射ちをする場所がなくて困っていた。 これを聞いた今津の始関半左衛門は彼がもつ五大力船で砲を運び、姉崎の八反歩(資料館注:史跡・八反歩参照)で試射することを申し出た。 始関半左衛門は、江戸中期頃から明治末期にかけての今津の豪商であり、十数隻の五大力船を持ち、今津から米や薪炭、木材等を江戸に運び、帰りの船で酒や味噌、醤油、衣類等を搬入していた回漕問屋であり、今津の下川には大きな居宅と十棟の倉庫が棟を並べていたと云う。  (写真は昭和初期の八反歩)
嘉永四年(1851年)姉崎の八反歩に運ばれたカノー砲の試射が行なわれることとなった。
八反歩の海岸には、大砲と云う火気を見ようと云うので、遠近各地から来た見物人で埋まり、長い時間待たされたが、耳をふさいだり地に伏すようにしている人も居た。
見物人の注視している中で、轟音と共に最初の一発が撃たれ見事に成功した。しかし、二発目、三発目と地ひヾきと共にその威力を誇ったが、四発目になって砲身が破れて、失敗に終わったと云われている。

その時の狂歌
 黒玉を打ちにわざわざ姉ヶ崎 海と陸とに馬鹿が沢山

<蛇足>
佐久間象山は合理的精神に立脚した人であったが、相当な自信家であり、大風呂敷をひろげる癖をもっていたために、象山に反感をもった者も多かったと言う。

この試射に失敗したときのことである。
松前藩の役人が『先生を信頼して大枚を賭けてきたのが、全て無駄になってしまった。』というと、象山はしゃあしゃあと『蘭書を読んで、誰一人として出来なかったことをやったのだから、間違えがあって当然である。今後も間違えが無いとはいえないが、日本広しといえども拙者を置いてできるものは居ないであろう。失敗は成功のもというから、もっと拙者に金をかけて、稽古をさせて下されるのも悪くは無いでしょう。』と言い、役人を呆れさせたと言う。

また、この失敗は庶民にとっても格好のネタであり、象山(本名は修理)を茶化す落首が多く出されたという。
しゅり(修理)もせで 書物をあてに押強く 打てばひしげる 高慢の鼻
松前に ことわりくうて手付金 今更なんと しょうざん(象山)のざま
読めもせず うそをつきじ(築地)の横文字り めくらをよせて 放す大筒
          象山の塾は築地あたりにあった
大砲を うちそこなってべそをかき 後のしまつを なんとしょうざん(象山)


 参考文献
  今津朝山のあゆみ  野崎馨 著  昭和58年