解説:荻原 重秀(おぎわら しげひで)

万治元年(1658年)、旗本荻原十助種重(200俵)の次男として江戸に誕生。、荻原家の家督は兄の荻原左兵衛成重が継ぎ、重秀は別家を興した。
延宝2年(1674年)、幕府勘定方に列し将軍徳川家綱にはじめて謁見。延宝3年(1675年)12月21日、切米150俵を支給された。
延宝7年(1679年)、先の五畿内検地の功績で時服二領羽織一領を与えられた。その後勘定組頭、勘定吟味役を歴任。
元禄3年(1690年)には佐渡奉行、元禄9年(1696年)勘定奉行(2,000石)従五位下近江守に就任。 
宝永2年(1707年)、さらに加増を重ねには700石加増される(都合3,200石)。
宝永4年(1709年)に将軍徳川綱吉が死去し、徳川家宣が六代将軍となると、新井白石などの家宣近臣達との関係が悪化。
宝永7年(1712年)、500石の加増し、都合3,700石を領したが、新井白石の度重なる弾劾を受けて、9月11日に勘定奉行を罷免された。
嫡男の荻原乗秀には辛うじて越前国坂井郡で700石の相続が許された。
正徳3年(1713年)9月26日に死去。

重秀の事蹟
佐渡金山再生

元禄3年に佐渡奉行に任ぜられた重秀は、当時生産量が落ち込んでいた佐渡金山を再生させる為に、翌元禄4年(1691年)佐渡へと渡海した。
現地にて金山の状況を調べ上げた重秀は、坑内に溜まった地下水を排出する為の排水溝を掘削する事を決める。
その5年後の元禄9年に「南沢疏水坑」が完成し、これにより佐渡金山は生産量が回復した。

貨幣改鋳

重秀は将軍綱吉時代の経済政策を一手に任された。元禄期は、佐渡金山は堀尽くし新たな鉱山の発見が困難となったことから金銀の産出量が低下し、貿易による金銀の海外流出も続く一方、経済発展により貨幣需要は増大し、デフレ不況の危機にあり、幕府財政も危機状態であった。 元禄8年(1695年)重秀は、慶長小判(金の含有率が84~87%)を元禄小判の慶長小判(同56.4%)に改鋳することにより流通する貨幣量を増加させた。 これによりデフレ不況を脱し、元禄文化の繁栄をもたらした。 
現代の重秀の評価は大きく割れている。 信用貨幣経済の先駆者と評価される一方、貨幣の実質価値を低下させ諸外国の信用低下(今でいう円安)・インフレを招いたと批判されtりる。
新井白石も後者の立場であり、重秀を厳しく弾圧し失脚に追い込んだ。
現在でも
重秀は「貨幣は国家が造る所、瓦礫を以ってこれに代えるといえども、まさに行うべし。今、鋳するところの銅銭、悪薄といえどもなお、紙鈔に勝る。これ遂行すべし。」との言葉を遺している。


  「市原市史」 市原氏教育委員会
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