解説:北条藩(ほうじょうはん)
 

寛永 5年(1638年)、第二代将軍徳川秀忠の三男である徳川忠長の家老として仕えていた屋代忠正は、忠長改易の連座によって忠正は蟄居処分に処せられていたが、やがて赦免されて安房国内に1万石を与えられて北条藩を立藩した。
寛文 2年(1662年)、忠正死去により、養嗣子の屋代忠興が相続したが、忠興は在位1年足らずの翌年に死去。その後を養嗣子の屋代忠位が継ぐ。
 忠位は百人組頭・大番頭などを歴任したが、小藩ではそのための出費が著しく藩は財政難に陥った。
正徳元年(1711年)、忠位職を辞して出費を節減し年貢増徴を主とした財政再建を行なったために領民の多くが反発し、藩内で大規模な百姓一揆が発生した。(万石騒動)
正徳 2年(1712年)、忠位は失政を咎められて改易となり、北条藩は廃藩となった。

享保10年(1725年)、水野忠定が信濃国から安房北条に1万2000石(うち一万石は市原・安房など)で移封されたため、再び北条藩が立藩する。
享保20年(1735年)、丹波国内に3000石を加増された。 第2代藩主・水野忠見(ただちか)は奏者番・大番頭を歴任。 第3代藩主・水野忠韶(ただてる)は奏者番・大番頭を経て文化5年(1808年)に若年寄に就任。
文政 8年(1825年)、忠韶は城主格となり、同年10年(1827年)所領の一部を市原・望陀郡に改められ、居所を市原郡椎津村に移す。以後、水野氏は鶴牧藩として存続し、北条藩は廃藩となった。


  「市原市史」 市原氏教育委員会
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