南北朝から室町時代の記録に残る姉崎地域の保名。
⇒「保」とは
・律令国家では地方行政を<郡・郷・保>の単位で管理していおり「保」はその最小単位。
平安末期以降は荘園の増強により<国−郡・郷・保・荘>という「荘園公領制地」が確立するが、<郡・郷・保>(公領)は国の支配下であったが、私有地の<荘(荘園)>は国の支配下から外れていた。 荘園公領制は太閤検地で消滅した。
⇒記録
甲斐源氏武田氏の一族である、小笠原氏の土地の譲状にその名が見える。(2通)
・康永3年(1344年) 小笠貞定から嫡子政長へ 「壹所 上総国姉崎社武田孫五郎長高跡」(姉崎社は姉崎保のこと)
・永徳3年(1383年) 政長の子清順(長基)から嫡子長秀へ 「譲与 所領等 子息長秀・・・・・壹所上総国姉崎保」
姉崎保は多くの所領の中の一つであり、姉崎には代官を派遣して支配したと考えられている。
⇒小笠原氏との関連は不明であるが、妙経寺台地は「館(やかた:中世の豪族の屋敷で、多くは堀を巡らしている)の跡」との考えられている。
・台地周辺には中世の館に関連する「堀の前」「木戸脇」「矢田」「鐙田」等の地名が残っている。
・姉崎妙経寺遺跡発掘報告書(市文化財センター)には、この台地から中世の墳墓等を壊して造られた中世の環状遺構(空堀?)が明らかになっている。

参考文献
市原氏教育委員会 「市原市史」・「市原のあゆみ」