特殊神事
      現在は絶えてしまい、執行されておりません。 

  お田植え祭(おたうえさい)   2月11日 
  御筒粥(おつつがゆ)   2月15日
  流鏑馬(やぶさめ) 0月20日
 
   

 
お田植え祭

 毎年二月二十一日にお田植え祭りが行なわれた。 お田植え祭りは「お宮の種まき」ともいわれ、当日は早朝境内にこもを敷き、牛になぞらえた高麗犬(こまいぬ)を安置し、鍬形と種形に切った餅を作り、種まきから苗植えまでを模擬した。 この後で「牛ほめ」の神事があった。 その内容を古書より紹介する。

右来御田植神事の祭式あり。毎歳二月十一日神官社人等神殿に集まりて、田植に關する一切の事を模擬せる式を行ひ、其の年の豊作を祈願す。當日神官は神饌を供え、先づ天下泰平、五穀豊穣の祝詞を奏し、次ぎに供えたる延餅を以て鍬数百挺を作る。又延餅を細切して種物となし、高麗狗を持ち来たりて牛に擬し(維新前は人を以て牛に擬せりと云ふ)神官その牛に對して稱讃の辭を述べ、次で種蒔・早苗・代掻・苗擔・苗植と順次之を行ふ。今その辭を記さんに

右ノ角ヲ見テ候ヘバ、善キコトヲ寄セ角トヲイテ候
左ノ角ヲ見テ候ヘバ、悪シキコト大山ノ上ノノケゾノトヲイテ候
耳ヲ見テ候ヘバ、琵琶ノ葉ヲ並ベタルガ如ク
目ヲ見テ候ヘバ、銅ノ鈴ヲ並ベタルガ如ク
口ヲ見テ候ヘバ、如何ニモコナ口ニテ候
枝ヲ見テ候ヘバ、金チョウノ玉ヲ連ネタルガ如シ
爪ヲ見テ候ヘバ、碁盤ノ上ニ茶碗ノ鉢ヲ臥セタルガ如シ
背ヲ見テ候ヘバ、上手ノツクリ木ヲ三丁並ベタルガ如シ
尾ヲ見テ候ヘバ、如何ニモ命長トヲイテ候
天晴牛々々々
                                                        
 
御筒粥

 毎年二月十五日新年祭の日に之を行ふ。今其の大要を記さんに其の前日にあたり、清瀲に生ずる葦を伐採り、長さ三寸許、其の数二十七本を清水に洗滌すること数十回、筒を作り三本宛合して一組となし、第一を桑の分、第二を蚕の分と、順序を定めて之を麻絲に編み、皮の儘なる柳の木を軸木として巻き附け、又洗米一升を石臼にて挽きて細粉となし、之を煮て白粥をつくり、新しき手桶に入れ置き神前に於いて神官祝詞を奏し、無念夢想にて右の葦筒をその中に挿入し、其のまま神前に供え翌十五日払暁、該器を撤し、社殿に於て小刀を以て葦筒を縦斷し、筒中につまりたる粥の分量を見て、其の歩合を定め、九種農作物(桑・蚕・麻・麥・早稲・晩稲・粟・大豆)の其の年に於ける豐凶如何を卜するを以て例とせり。尚前記の歩合書を謄寫して氏子中に配布す。農家は之を見て、其の年に於ける農作の参考に供すといふ

                                      

流鏑馬


 『源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをして、武運長久を祈願した』との伝承に由来する神事。
 毎年10月20日に行われる秋季例祭の祭儀の後、馬場(現在の神門から ぼらぎ坂の少し先きまで)で行われていた。(地元では流鏑馬と言わず「的(まと)」と言った。)

 流鏑馬の神事は、はじめに安全を祈願する祭儀が拝殿で行われ、これには「頼朝」「義経」と呼ばれる乗り手が「口取(くちとり)」「矢取(やとり)」を従えて、「頼朝」は臼に、「義経」は碁盤に腰かけて参列した。
 その後に流鏑馬が行われる。 
 馬場の道筋には「壱の的」「弐の的」と呼ばれる二本の的が立てられいる。 
 近郊から集められた農耕馬に騎乗した「頼朝」「義経」が弓を手に、大勢の見物人の歓声の中を、馬上勇ましく疾走する。
 馬上から的を射ることはせず、的の前に矢を落すことで射ることに代えた。

 流鏑馬が、いつの頃から始まったのかは定かでないが、明和二年(1765)の記録には記載されている。 
 一時中断し、その後、昭和30年代後半に復活したが、農耕馬がいなくなると共に流鏑馬も消滅した。 昭和54年10月20日が最後であった。
   
 
最後の流鏑馬