『白幡六郎』に関する資料
ここでは、『椎津城最後の城将・白幡六郎』、六郎の墳墓とされている『塩煮塚』および『六郎の口伝(民話)』に関する資料の該当部分を掲示します。
なお、各資料の底本となった『市原郡誌』の「椎津城趾」の項については全文を掲示します。
椎津城趾
姉ケ崎町大字椎津字外郭にありて最高處七丈餘の丘陵たり、里俗城山と云ふ、西北東京灣を望み眺望甚だ佳なり、今は開墾して一部畑となれり、稲荷・淺間の二小祠を存す、蓋し本丸の跡ならん、眞野郡椎津の郷とは建武二年十月三浦介高經の寄附状に載する地名にして町村誌に言ふ行傳寺は日蓮宗を奉じ、椎津城主又太郎の創建と傳ふ、又太郎とは眞里谷信政の事か、明應の昔、眞里谷氏の築く所にして天文中眞里谷信政之に居り、足利義明(小弓五所)に服事す、同七年里見氏義明を翼けて北條氏康と國府臺に戰ひ敗績し義明戰死す、同二十一年信政北條氏に疑を通じ里見氏を撃たんとす、里見義堯之を知り信政を攻む信政城を焼て自殺す。
(里見代代記云)天文七年(皇紀二一九八年)十月北條氏康・氏政大軍を催、下総國鴻臺に軍勢を押出す、三浦社家公御子祐家殿防戰ふ、里見よりも入道殿六代義成公両大將にて發向有、力を合せて戰給ふ、三浦殿御運是迄にや有けん、味方負戰になりて(中略)三浦殿三代にて此時滅亡したりける、上総も少々北條家に属しける、然るに上総の椎津の城主眞里谷信政小田原となりて十年餘一味同心したりける、天文二十一年(皇紀二二一二年)壬子の秋、里見家を亡さんとて小田原と謀を示し合ける、小田原より萬喜か方へ言ひ送りけるは、足下も味方へ與力せらるれば足下と眞里谷へ三浦の持添の知行を半分參らすべし、半分は小田原へとるべしと言へり(中略)思も寄らぬ事哉とて承引せず、(中略)急ぎ館へ申上、萬喜、正木一門成、大將出陣ましまし、入道殿御後見にて同き年の十一月四日、椎津の城を押取巻、鬨の聲をぞあげたりける、兼てより用心のために小田原より軍兵多く附置きたり、信政たのみ強く思ひて掛よ引よと下知をなし、朝の四つより夜の五ときまで息をつかず戰ひたり、里見方へは房州勢もかけつけて新手を入替入替責立つれば、城方も爰を詮度と防ぎ戰へば、正木が手にて堀江・新藤・冨田・大津・杉岡・西畑など討死す、萬喜が手にて西野・山口・原田・金澤討たれける、去れども里見方には新手の房州勢虎・獅・象の狂ふが如く、命を限りに死人の上を飛こへはね越え切り立れば、城方に打物の功者名人と沙汰しける侍共第一には武田左近・同四郎次郎・同丹波、第二には眞里谷源三郎・同宇右衛門亟・同左京・高山左門・西川彦六杯と云ふ兵共命を惜まず働きけるが、次第に戰ひ勞
れて枕を並て討れける、信政も今は是までとや思ひけん、己と城に火をかけて腹撹切て死たりける(中略)從是以後永禄七年に至るまで十二年が間上総路に事故なく、剰へ下總も大半は里見方にぞくしけり、云々。
後里見氏木曾左馬允に守らしむ、永禄七年北條氏の収むる所となり白幡六郎に守らしむ天正十八年里見氏又攻め白幡六郎は戰死し乗馬と共に千種村に共墳墓を存す再び城地は里見氏に歸せしが後豊臣氏の取る所となり城陥る、里見軍記・北條五代記には明應以前眞里谷氏の築きしことを明かに記されたり(國誌に云)椎津城址は山阜により甚儉ならず、其往昔を考ふるに、山脚海に通り、澎湃を以て外隍となすものに似たり、後世郭内を鑿開して道路となす、里見記に天文七年里見義堯鴻の臺の戰に敗るの後、上總の所領多く北條氏に歸す、二十一年、里見義弘、眞里谷信政と平かならず、遂に兵を發して椎津城を攻めて之を放く信政自殺して城陥る、義弘兵を留めてかへる酒井家記を按ずるに曰く、永禄七年里見義弘國府臺に敗るゝや、武州岩槻城主太田美濃守三樂齋と共に、椎津城に入ると當時眞里谷氏猶ほ里見に属し後畔くものか。
市原郡誌(総説)復刻版 千秋社 1989 より
永禄七年一月七日(1564)の国府台後役において、里見義弘が北条氏康、氏政の軍に敗れると北条軍は余勢をかって、一月十七日以後に西上総に侵入し、椎津城を初め池和田城(五月)、小糸城(六月)をおとし、久留里と佐貫を残して上総西北部を侵略するに至りました。
北条軍の椎津城攻撃がはげしくなると、木曾左馬充は城を捨てて逃亡したといいます。そのあとに北条氏は、白幡六郎を城番としてこれを守らせました。
天正十八年(1590)五月、豊臣秀吉は小田原城を攻撃中、浅野長吉(後の長政)を将として上総の地を攻略させました。このとき椎津城は落城し、城将白幡六郎は浅野軍に追われて白塚村まで逃げたが、深手を負ってこの地で討死しました。白塚村の塩煮塚(正人塚の転化)は六郎の遺体を埋葬した所と伝えます。塩煮塚は明治四十四年の鉄道建設工事のとき消滅しています。
市原のあゆみ 市原市 昭和48年 より
永禄七年一月八日(一五六四年)、後の国府台戦に敗れた里見義弘は、五月頃になってから北条氏政の追撃戦を受け、池和田城も落城したとともに、木曾左馬介は椎津城を支え切れずに逃げ出したので、これも落城したのであります。そこで氏政は、兵を添えて部将の白幡六郎をして守らせておりました。天正十八年(一五九〇年)四月末になると、小田原攻めをしていた豊臣秀吉は、部将を派して両総の地に軍を進め、七月頃には浅野長吉等の軍により椎津城も攻略されたため、城将白幡六郎は追われて白塚村まで逃れたが、この地で戦死したので塩煮塚に葬られました(郡誌)。現在塚は鉄道用土に取つたのでありません。
白塚村の家号郷中(ごうなか)の家祖は千葉氏の出であり、千葉党百人衆の一人であります。同家の系図によりますと、氏祖中村敬胤の内室は椎津隼人正氏輝の六男白幡六郎俊国の女であると記されております。敬胤は中村内匠と号し、千葉郡中村に住して五百石を領し、天正十八年八月豊臣のため中村を失ったので、椎津領の旧地白幡村(当時の称)に蟄居しました。後敬胤は徳川方の旗本筧氏に従い、大阪冬の陣に参戦して戦死すとあります。
かくして天正十八年には房総の地は悉く秀吉のために一掃され、徳川家康に所領として与えられて統一されたのであります。
市原郷土史研究 第三号 昭和四十二年
市原の城郭跡について 落合忠一 より
<塩煮塚について>

千葉県姉崎町土地宝典 帝国市町村地図刊行協会 昭和三十四年 より
白幡六郎墳
上總國誌稿に載する古墳の一たり、千種村大字白塚字鹽煮塚に在り(上總町村誌云)、凡高一丈五尺、周圍三十二聞其頂老松あり、天正十八年庚寅六郎椎津城に居守す、豊臣及里見氏の兵來り攻む六郎城を出でて此に死す、之を葬りし所となす。
按ずるに六郎は椎津城主白幡集人正の子なり、此時隼人正北條氏に從ひて小田原城にありき。
市原郡誌(総説)復刻版 千秋社 1989 より
白幡六郎墳墓
千種村白塚區に字鹽煮塚あり。高凡一丈五尺、周囲三十二間、其頂老松茂れり。天正十八年、庚寅の歳白幡六郎椎津城を居守す。豊臣及び里見氏の兵來り攻む。六郎出でて戦ひ、此に死す。比塚は即ち六郎を葬りし所と云ふ。
馬塚
千種村柏原區字後原に一墳あり。里人椎津殿の馬塚と稱す。白幡六郎戦死の時、其乗馬斃る。即ち之を埋めし所なり、と云ふ。今は塚跡崩れてなし。
市原郡誌(町村誌)復刻版 千秋社 1989 より
<六郎の口伝>
数年後北条氏によって椎津城は再び奪還されて、城は家臣の白幡六郎に与えられています。
白幡六郎はここをよく守り、良い治世を行ったので領民からしたわれ、数々の民話や風習の原点になっています。
1590年 豊臣秀吉の北条氏の征伐と運命を同じくして、椎津城も落城し、白幡六郎は自刃して果て、戦国の山城椎津城はついに歴史からその姿を消しました。
おさん狐と城山の殿様狐のはなし
山王山に住むおさん狐と城山に住む殿様狐(白幡六郎の化身?)の恋物語。
二匹の狐が人に化けて村人の盆踊りに参加して恋に落ちたが、こころない猟師が城山に住む殿様狐を殺してしまったためにたたりが生じ、五日目ごとに狐火が城山からハシリ、猟師の家を焼いていくーーーというストーリー。
地元民の白幡六郎への郷愁と、たたりに対する畏怖がともに感じられる民話です。
椎津の空荼毘・・・・・じゃらぼこ
白幡六郎が戦いに負けて白塚で自刃して果てた後も、椎津の領民には生死を知らされませんでした。真里谷に逃げて農民になったとか、つかまって殺されたとの噂が領民達に広まりました。
白幡六郎は領民の信望が厚かったため、領民はとりあえず葬式をだそうと考えましたが新しい領主が認めるはずはありません。そこでお祭の偽装をして葬式ごっこをしたのです。
それが今に伝わる椎津の空荼毘で、偽装のお祭がじゃらぼこです。
なお、地元では白幡六郎を椎津小太郎と美化して民話化しています。また、山新に白幡六郎を祀った白幡神社があり、白幡六郎が埋葬された塚を白塚(今は喪失)といって地名の元になっています。
姉崎 不思議発見の旅! 市原市商工会議所姉崎青年部 より