『市原の年中行事』
『市原の年中行事』は昭和四十年、市原市教育委員会が、当時の市文化財研究員の皆様のご協力を得て、消え行く市原市の風習・行事を調査、採録し刊行したものである。

 当時の行事・風習・遊びが数多く記録されている。この冊子に記録されているものの多くは、人々の記憶から忘れ去られ、二度と人々の目に触れることがない風習である。
 この冊子が無ければ、その風習の存在さえも知られることがなっかたであろう。
『市原の年中行事』は昔の風習を記録した、非常に貴重な資料である。

下記の「行事一覧」は原本にはないが、記載された行事等の索引として当館で付加したものである。
また、原本には、年中行事のほか、「市原市の文化財」「南洞文庫」「光善寺薬師如来縁起」が記載されているが、今回はそれらを割愛させて頂いた。


行事一覧
年中行事 1月  2月  3月  4月  5月  6月
 7月  8月  9月 10月 11月 12月
地域の行事  不入斗の行事
暮らしの行事 ひやり 子安講 子安参り つくまい 祭囃子
  椎津・からだみ 小鷹神社・苞飯 あんばまち
農業関連 稲虫送り  いねむしとり
宗教行事 ゆだて 念仏講  ナンマイボンダ  お備社
 八日講 入行事覚書き
季節の行事 三夜講 ツツ突き餅
子供の遊び ほっくり ほっこち  篝焚き 玉切り  ケンカ独楽





『市原の年中行事』
  序

市原市の急激な発展は、住民の生活様式自体にも急速な変革をもたらしつつあります。
このたび市原市文化財研究員各位の御努力により本市年中行事及び市内文化財の調査、採録が行なわれた事は、文化財の保護活用の意味からも誠に意義深い事と信じます。 なお、加えて南洞文庫図書目録の刊行をみた事は、研究者各位にひ益する所が多大であろうとひそかに自負する次第です。
しかしながら、これらの調査は十分な日時と人員を以つて行なわれたものでないため、十全を望む事はもとより期し難いものがありますが、幸い関係者各位の卸努力により、予期以上の成果を以て、ここに発刊の運びをみたことは喜びに堪えません。
おわりに、本書刊行にあたり多大の御協力をいただいた市原市文化財研究会長切替尊文氏並びに会員各位に心から謝意を表する次第です。
  昭 和 四 十 年 三 月
                      市原市教育委員会
                        教育長 本間隆次



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文化財研究誌発刊に寄せて

市原市は養老、村田両河川に依つて形成された。広いデルタ地帯と、その後背地丘陵一帯を含めて、豊かな物資の生産地である。順つて遠い古代から沢山の人間が住み着いて居った。その遺産とも云うべき貝塚、古墳、住居址等は市内全域に亘つて夥だしく残されて居る。
又中世以降に於ても豪族間の生存競争とも云へる色々な事柄が或は古城址とし、或は古戦場して静かに眠って居る。
 それにも増して庶民の永い生活史が生んだ種々の状態や感情が、経済、信仰芸術のあらゆる形に於て永く伝承され人々と共に生き続けて来たのである。その中には政治経済史あり、芸術文化史も有る。又民俗的な習俗や信仰形態も有る。何れを取つて見ても郷土の香りの豊かなものばかりである。
 然し工業生産都市としての新しい息吹きはこれ等の古いものを押し流して忘却の彼方へ運び去らんとして居る。所謂る過渡期である。
 そこで遺された文化財や習俗伝読を、或るものは保護し或るものは調査研究して、永く後世に残す事は民族の発展と文化社会建設の為に無意味な事では決してない。文化財研究誌の発刊に依って些かでも自的が達せられるならば幸である。
                       市原市文化財研究会長
                           切替 尊文



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目次

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序・・・・・・・・・・・・・・・・・・・本  間  隆  次
市原市文化財研究誌発刊に寄せて・・・・・切  替  尊  文
市漂の年中行事・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・一頁
 四季の年中行・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三〃
一 月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十一
二 月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十五
三 月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十六
五 月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二〇
七 月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二一
八 月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・二七
十 月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三一
十一月・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三一
出羽三山行入行事覚書・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三三
市原市の文化財・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・三七
南洞文庫図書目録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四五
川上南洞先生・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・四七
南洞文庫について・・・・・・・・・・海老名  雄 二・・・四九
南洞文庫図書目録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・五一
上總国市原郡市原村光善寺薬師如来縁起      七三



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 はじめに
 市原市の急激な都市化は、急速に年中行事を失わせつつあります。今のうちに記録に留めない限り、永遠に姿を消す事を恐れ、市原市文化財研究会にお願いし、会員の方々より御投稿を頂きました。
幸い、御協力を得て貴重な資料を蒐める事ができ、ここに印刷の運びとなつたことを深く感謝申し上げます。
同一行事も、部落により取上げ方に多少の相違があるため、ここでは重複もいとわずのせました。



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四季の年中行事
          部 落 の 年 中 行 事
<一月>
一月一、二、三日を三ケ日として、各家庭にては主人が朝早く起き、雑煮を作り年神様に供え、五時頃一家皆起き、礼拝後一同揃って雑煮を食す。
二日は前記の様にして馬頭観音様へ馬を連れて御参りし、御供餅をして帰る(終戦後この風習は無くなる)
一方苗代田へ松の枝及び米の御供を持参して三鍬耕し、御供し、又鎌にて周囲を刈る。これを鍬入鎌入と言う。(今は実行するもの僅となつた。)
三日は朝より近隣の子供たちが集り、パタパタを作り、各家へ廻り餅やお金等をもらい一同夕食をして帰った。
パタパタ等はツケギで鍬鎌万能の形を作り、之を一升ますに入れて各戸御祝に持参した。来た事をあいずの為ますをパタパタと打ったのでぱたぱたという。(日清戦争後自然無くなつた)

  ぱたぱた
ツケギ (実物大)
厚さは各人の名刺位


七日 七草(ホックリホ)子供行事
 六日夕方までに庭とこの木を一尺五寸位に切つて、両方よりけづり、中程にふさふさになる様にけづつたものを用意して、七日近隣の子供の大きい人が竹の長ざおをかつぎ、小さい子供が前日用意した物で竹ざおをたたきをがら各戸を廻った。この時の歌に「ホックリホックリホーエン様追えば腹たち、追わねばしかる。ホツクリホックリホーエン様………」これを繰返し歌う。
なお新嫁の家へ廻り、また新たに奉公人の来た家へ行つた時は其嫁又は奉公人をほめる言葉を入れて廻った。(日露戦争後なくなる)

一四日 きわた
 十四日には餅を搗き、門松に使用した楢の木の枝に餅を小さく切り之を枝につけ石臼の平に結えて年神様に供え、また門松の竹を四ッ又は五ツ位に割り、庭とこの木を六寸位に切り之を開かせて粟の穂の様に垂らした。これを粟穂と言う。(粟即ち穀の意。日独戦争後少なくなり今では全くなくなつた)

十五日 粥
十四日木綿の餅を入れた小豆粥を作り、年神様忙お供えする。その時柳の木で箸二十四ぜんを作り、粥にそえる。また正月中藁で色々の物を作りたるものを焼いて家の廻りに灰をまき疫病除けと言う。(終戦後殆んど無くなる)

二十五日 天神講
 二十五日朝近隣の子供たち集り、宿で習字をし、一番良く出来たのを天神様に上げる。これは当番が廻り番で米一合宛持ち寄り、当番に当つた家が色々の子供のご馳走を作り、神社より帰るのを待つてご馳走する。昼食後半日、子供たちは愉快に遊び、夕方後に何がしかの土産を貰つて帰る。(日露戦争後無くなる)



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<二月>
 三日又は四日、各戸はヒイラギ、グミの木、大豆の木にめざしの頭をつけて家、倉、納屋、便所等人口の両側にこれを立て、屋根には大きなかごをふせて夕方より福は内鬼は外と呼ぶ。この時大豆をまく。夜になっては厄年と言って七才の女、十九才の男、二十五才、四十二才、六十才の人は、何がしかの金と、年だけの数の豆を入れて四ツ門又は三ツ門に落しに行く。これを厄落しと言う。(終戦後殆んどなし)

初 午
 初午が早いと火が早いといって、節分直後の初午の年は寺の龍神様に祈りを上げ、清龍権現様と共に防火を御祈りして無災を祈つた。
今ではこの行事無く、ただ当日会費を出し合って飲食し、一日の慰安となり、今をお慰安は続いている。



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<三月>
三日は女の節句であり、餅を搗き祝う。


 
<四月>

三日例祭 親類知人集り祝う。


<五月>

五日は男の節句。餅を供えて祝う。初節句の人は競争して大きなたこを上げたが今は少なくなつた。外かざりもだんだん内かざりとなる。(終戦後より)



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<六月>
早苗振り
これは田植の時手伝を受けた時は二十五日の日に招待して馳走したが、今では各町内毎に集団して祝う。豊年祈願である。

二十七日(旧) 新著
 新らしく出たすすきの幹を箸の長さに切り赤飯に添えて神に上げる。すすきは屋根がやの豊年を祈つた事と思う。(日露戦争後無し)


<七月>
七日天王様祭(終戦後無し)



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<八月>
七夕祭
 七日は七夕祭といつて、まこもで馬を作り車に乗せて朝早く鎌を持って草刈りに行き、馬に草をつけて帰った。馬に競つてかざりつけをして立派な姿にした。家に帰ると馬に赤飯を供えた。(明治年代で終る)一方家人はやはり早く墓掃除に行き、御盆の御膳を作った。当日は仕事を休んだ。

                                        盆行事(一三〜一五日)
 十三日は迎日のため四時頃より新調の着物を着て迎いに行つた。十五日には御寺の施がきが終った。夜の十時頃お送りした。
大正年代の中頃迄は盆の間青年男女の盆踊りなどがあつたが今は無い。

二五日(旧七月二〇日) 稲虫送り
 青年が一ケ所に集り据苗といって(補植用)の苗を取ってこれをつととし新竹の先へつりさげ「ネムシムシ来るな、来ると焼いて焼いて焼くぞ」と隣部落の境の川へ捨てに行く。(日露戦争後無くなる)

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<九月>
二百十日
 九月一日、台風の如何にかゝわらず赤飯を神に供え無事を祈つた。一日休み。(昭和六年頃より無し)

月 見
 旧八月十五日尾花初め、秋の七草及栗などを供え、餅十ニケを作り供えて月を祝つた。(この行事も今では部落の半数位になる)

稲荷祭
 九月二八日毎年新らしい藁で宮を作り、これに新らしい御幣を入れ、甘酒赤飯を供えて祝った。(終戦後は神宮よわ御幣が来るからと仕方なく祭りをする人が多くなりつゝある)



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<十月>
 十七日氏神の祭典を行なつたが、内容は四月の祭典と同じ。


<十一月>
二十三日ちじゆ餅
ちじゆ餅(秋の間籾米等こぼれたものをはきよせて餅に搗く)を秋手伝をして呉れた人にくばる。
なお神様に供えて秋の終了した事を告げる行事。(これは形式で実際は良い米を用いた)

神の御立 神の御帰り
 旧九月三十日の夜、神社に氏子が集り十一時頃迄皆居た。また十月三十日御帰とて御立と同様神社に集りて、御迎えする。此時一年中にて病気祈願した人又災難をのがれた人達より甘酒の接待等があつた。(大正年間までで今は無い)



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<十二月>
師走の朔日
 十二月一日 師走の朔日とて意味無く一日休む。(これは日露戦争後無し)

七五三祝
 十二月十五日の日に神社に紐解子として御参りした。(終戦後各自の都合によりまちまち)
 十二月二十八日には近所数戸で正月餅を搗いたが一日がかりであつた。(日露戦争後は各戸毎に搗いた。)
 十二月三十日 正月飾りとて門松を立て注連を張り、年神様を祭り、正月の準備をした。二十九日は九日飾りは貧乏の元といってきらい、今でも二十九日にはかざらない。


念仏講
 毎月十五日、二十八日老母たちは寺に集り念仏を唱え後生を祈つた。終戦前までは之を十善溝と言った。 >

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ひやり
 種蒔ひやり 春籾種を苗代に蒔き終つた時、此種蒔仲間教名が一組宛になつて最後に酒肴を手料理にして苗の成長を祈った。
 又主婦連は前記仲間と焼米搗きといつて半日位づつ交替に種籾の残り分を「むし」てから「いり」、臼で搗いて之を約一斗位あて作った。これは二、三日して終ったが、其時もひやりをした。
 四月に田耕が終った時も田耕びやりといつて一日休み、ひやりをした。
 十一月に秋終了の時も、豊凶を問わず豊年祝としてひやりをした。
 このひやりの行事も日露戦争後無くなつた。



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三夜講
 旧暦二十三日の夜、組内の人が当番の家に集り三夜様に御供ものそして月の上るまで雑談をしながら月を待ち、十一時頃月が出るとこれを拝み、御神酒を頂いて帰つた。此為むだ話の長い人を三夜様と言う。毎月であつたが終戦後正五九の三回となり今は形式だけが一部に残つている。


八日講
 奥州三山に参拝する人を行人と言い、毎月八日の日行宿(寺)に集り、大日如来様を拝む。時代時代によつて盛衰があり、終戦前まで無く(大正年間)終戦後又これが復活して、老行人が毎月施行して居る。明治年間迄は盛大であつた事が記録によつて判明している。
盛衰は当時の経済状態を物語るのである。農村の経済は三山参拝の費用に非常に関係が深かつた。終戦後裕福になつた為皆参拝に行く様になり又盛んになつたのである。



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子安講
 若い主婦達の集り。毎月当番の都合の良い日を以て組内毎に集り、安産祈願をしたのである。しかし終戦後は午后一時頃に一ケ所に集り、子安様に安産祈願をする様になつた。
市原市勝間の山王神社(勝間産土様)及山王子(当番を受けた子)
 山王子とは三才より十五才迄の男の子で摘出子の者の中より祭典の前日神宮氏子総代及び左右座(大昔より限定された家二戸)立合の上抽選に依り選出は神宮により行なわれた。其内初め人は酒盛と言い祝宴一切を掌つた次に出た人は柳葉と言い餅其他を掌つた。
 これで山王子が定まると使を出し使を受けた家は直ちに両隣の人を頼んで明日引渡し、引受準備の為神社に参行色々明日の打合せして帰つた。当日祭典の日は定められた通り準備し、両隣附添山王子を連れて神社に参行し引渡し式に参列した。比式は四人の子供は麻上下をつけ附添の人も正装にて参列大昔より伝わる大小チョコにて三様宛銚子にてつきのみ引渡式を終る(小チョコの大サ約一升入位)勝間下戸に酒三升とは此辺より出た言葉と思われる。
 山王子を受けた家は子供は神の子として一ケ年間は実に大切に取扱い身には何れもふれない殊に刃物は一切禁じられておつた。
又引渡し式に行く時は神立と言って近隣の見送りも盛大であつた。なお柳葉とは柳に似た餅を作ったことより出た言葉。
次に此諸費用は宮田と言つて五俵入れ(約二反五畝位)を二軒で耕作し秋収穫後二俵半を年貢として神社に納入残の米の内一俵で酒を作り一俵で柳葉餅を作り其他一切の費用に当て、残りあれば二人して分配、此費用の内に神宮の初穂料も含まれていた。(深山家より寄進壱反五畝位)
なお引渡式がすむと一般参拝者は直会とて一人二十一杯宛酒をのむのが定であつたと言う。
終戦後農地改革に依り田も無くなつたため今は只形式のみとなつた。これも今では山王子も無く何とか昔からのこの祭典を保存したいものである。
                       (荻作 近 藤 忠 雄)


 

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不入斗部落の年中行事
一月 二日 鍬入、鎌入、ない初め、書初め
   七日 七草粥
  一一日 備社
  一四日 ぱたぱた
  一五日 小豆粥、飾を焼き灰を家の廻りにまく。
  一七日 念仏初め
二月 四日 節分
   七日 山の神、初午、ひやり(主婦の懇親会)
三月 三日 桃の節句
四月二五日 種蒔ひやり
五月 五日 端午節句
六月 吉日を選んでそうりと云い赤飯を作る 早苗振り
七月 七夕祭まこもにて馬の形を作り子供が引き出した。
八月 御盆
   八朔の一日が来ない内は焼茄子は食べるなと云われた。
九月 風祭
十月一五日 小鷹神社祭典
十一月 ねずふさぎ
               (不入斗 泉 水 千代吉)



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ほっくり
  お正月と云えば雑煮を思い出すが、其の雑煮の調理方法とか使用材料にも色々な仕来たりや変遷があるものと思われる。
 例えば雑煮の汁の作り方にも、おすましあり、醤油汁あり、味噌汁あり、お汁粉あり、材料にも単に里芋と鶏肉或はたれに更に若菜とか竹輪、蒲鉾を入れるとか海苔やはば、鰹節を使うとか各々相違があると同じく七草倉開き小正月にも異つた味があると思われる。
 十五日(小正月)の前夜は繭玉祭(きわたの団子)と言って西広の各戸では夕ぐれから餅搗きが始まり、搗き上ると小さい丸餅を楢や櫟の小枝に飾り、神棚や仏壇に供えて豊作を祝う。その頃になると三人若しくは五、六人の組々が長さ二米位の竹竿をかづいて三糎か四糎位の小竹で長竿をたゝいて次の歌を拍子を取って歌いながら各戸を廻わる。
 ほつくり ほつくり 宝院さんほ(お)えば 腹立つほ(お)はんけりや 叱るにさしほつくり 宝院さん今年の年は 弥勒の年で
 三貫ぜにを襷にかけてよね はかり米はかり 苗代の畔にこもくとりが啼いている なぜそこにないているナ。
 五月のお粥くつて すとんすとんほーほー。
と幾度幾度も操り返し最後は公会堂かグループの中の年長者の家で煮たり焼いたり子供子供の好みの料理して残れば銭と等しく分配して夜の九時か十時頃家路にたどつた。
 二十日正月の前夜祭のぱたぱたと呼ばれるものも所によつてはほじやらと云われて桝に農器の模型を入れて人知れず各戸に配ばつて餅や銭を貰つて覆理するのは全くほつくりほと同じであるが、教育の徹底と食糧の確保と共に大正終期頃から影をひそめた。これは各地で行なわれるどんど祭の変形したものである。
                      (西広 広 川 茂 生)



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玉切り遊び
 子供の頃、私の村では正月の雑煮祝のあとには女の子は羽根突きやお手玉遊びをした。男の子供は「ケンカ独楽」の外に「玉切り」遊びがあつた。玉切りというのは、子供の外に青年組もあって、ともに村の道路上を場所とした。
二組に分れて両陣の中央に一線を引いて対抗線を作った。両陣では最初に腕利きの者が先頭について、互に玉切棒(打棒)を持って敵玉の切返し戦に当った。二番三番の打者は一番の後に続いて陣を取り、玉切棒を構えている。
「玉」は平玉で径6cm〜9cm位で欅椎等の堅い生木の輪切玉である。子供組のは小さく、青年組には大玉が使われた。玉切棒は「へ」の字形に生枝で造り各自に持っていた。対抗距離は子供組で六〜八間、青年組は十間〜十五間位もあつた。
一陣は三人位が適当で四人五人と多くなると、後方にはめつたに玉は廻って来なかった。先番者が疲れた頃には後に控えた者と交替する。また試合中に先頭が切り損じた場合は二番三番というように切返し合うのだ。遊びは、まづ最初に甲陣の一番が乙陣に向って木玉を路面に強投して走転させると、乙陣は待ち構えた玉切捧で甲陣へ切返す。甲陣はまた乙陣へ切返す。反復切返しのゲームである。野球のホームランに似た飛玉が出た時の打陣は喝来して勝誇り、受玉の割れた時も同様の興奮にひたったものだ。
−番打者の受け損じた時には二番打者が切返して先頭と位置を交替し、続いて二番が損じた場合は次の三番が切返せば、三番が先頭と交替する。全員切り損じたとか、切返しても玉が自陣内に留った場合には、共にその組の負けとなって相手の組が勝となる。 賭物や賞品のない遊びだつたが、時には切返玉に当って怪我をすることもあって、スリルの伴う面白い遊びであつた。今でも正月になると思い出す。
 こうした行事も娯楽の乏しかった農村には楽しみの一つであり、大正期の初め頃まで受けつがれていたが、自転車の農村普及と共に道路では危険となり、外にいっても遊び場所はなくなつて、ケンカ独楽と共に自然と興味もうすれ、移りゆく時代の波に流されていつた。
                    (谷島野 落 合 忠 一)



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お備社
 有木の村では毎年正月五日に他所と変つたオビシヤ(備社)が行なわれている。現在約五十戸あつて四組に分れ、組内をニウチと呼んでいる。各ニウチには毎年家順に当番宿が定まり、四軒の宿ができるのだ。組々には昔から伝わる専用の古風形の燗徳利と掛軸に、行事諸用の帳面が申し送りに伝わつている。
 当番宿では前日から会費を集め、帳面を見て前例を超えない程度の飲食物を作り、酒を用意するのだ。当日になると、ニウチの者は午後から宿に集り掛軸によつて祭壇をしつらえ、専用徳利に酒を入れて予め祭壇に供えておく。頃を見計らつたニウチは、戦国時代蟻木城跡にある鎮守の八幡様にこの徳利を持って集るのだ。四組のニウチで一本ずつ四本の酒を神前に供えて式が初まると、一同は拍手礼拝をするだけである。以前は祝詞があつたことと思われるが、今は祝詞をあげるような人もいないので、一応ここの式は閉じられる。
帰り際には自分のあげた徳利と、ほかのニウチがあげた徳利とを取替えて、次に村の北方にある天王様に参拝するのだ。天王様では宿主が待つ燗徳利を神前に供えて、八幡様と同様な式が行なわれ、これが済むと今度は一同が社庭におり立ち、四組のニウチは入りまじって各々が燗徳利の神酒を、盃を使わないで自分の手(掌)で受けて呑むのだ。これを手盃といつて本年の五穀豊穣を祈るとか、これで本日の神前式は終つたのだ。
 こうした一風変つた社前行事を閉じてからおのおのニウチ宿に引揚げ、この徳利に改めて神酒を入れて祭神に供え、酒宴に移つてゆくのである。宿では今までの緊張した社願行事と打つて変つて、ハメをはづした賑やかさで毎年この一日楽しみ過すという話を聞いたままに書いたつもりだが、多少の聞漏らしはまぬがれないと思う。
                       (谷島野 落 合 忠 一)



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ケンカ独楽遊び
 ケソカゴマなやろか‥‥オオやるべや…‥正作はお袋にせがんで去年の暮に買つてもらつた独楽を、正月が来るまで大事にしておけといわれていた。門松に雑煮を食つたから正月だといつて、しまつて置いた独楽を持出して遊び出した。初めは廻り時間の競争をしていたが、厭きが来たのでケンカ独楽になつていった。
 独楽の綱は正月飾りの麻といつしょに買ってもらつたので、程よい太さに父親に綯ってもらつた。長さは麻一本分で、綯い初めを結んで房がつけてあつた。結びコブに一文銭を通して指止めにした。銀杏の胴木に鉄の心棒、鉄の胴輪が欺めてある金独楽には、大小あるが、大き目のものがケンカに向いていた。
 ジャンケンに負けた月雄が置き番だ。心棒から綱をからんだ月雄は、一文銭を小指と薬指の聞から出して、右手を後ろめに振上げて構えた。勢よく地面に投げつけるようにして網を引いて廻した。置いたナ……と正作は月雄の独楽を目がけて、自分の独楽を投げつけるようにグイッ……と綱を引いた。ガチン……と音を立てた。月雄の独楽は止まってその場に投げ出された。正作は廻ってる自分の独楽を取上げた。ま新らしい胴に大きく傷がついていたが勝負には勝った。勝った者は何度も続けるのだ。今度は当ったようだが廻らなかったので負けとなつた。こんだアおれの番だゾ……月雄は自分の独楽を取上げ、網をからみ力一杯立向つた。ドスン……とにぷい音を立てて心棒が突出した。が独楽は廻っている。月雄の勝だ。そこえ勝一が来ておれもソエロといつて、置番になつた。
 こうしたケンカ独楽は交互反復ゲームで、何人でも巡廻りに出来たが、時には勢い余つて第三者に当り、怪我をさせることもあつて、スリルが伴なつた。
世の移り変わと共に、昭和大戦の初まつた頃にはいつしか消えていった正月の遊びであつた。
                      (谷島野 落 合 忠 一)



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二月
ほっこち
 金剛地には、雀が田畑の作物を食い荒し、その被害が大きかつたので年越しの日比子供たちが竹をたたきながら家々を廻るという雀追いの行事があつた。 門松に用いた松の中から直径五センチメートルほどのものを三○〜四〇センチの長さに切り、手で握る所を一〇センチほど除いてあとは皮を剥いた。色紙数枚を用意し、これを重ねてその一端を糊ではり合わせ、はらない部分はハサミで上図のように切り開いた。色紙の糊ではり合わせた部分は、この松の棒の握りの近くにはりつけた。子供たちはめいめいこの棒を持ち、片手には長い青竹を皆で持ち合い、一軒一軒の軒先に立ち、この棒をたたきながら、
 ホツコチ ホツコチ
  ホーイ ホーイ
 今年の新参 色白で
  卵子に目鼻を つけたようだ
      とはやし立てた。
雀追いを受けた家では、子供たちに小銭を与えたが、子供たちはこれをあとで分ち合い、駄菓子などを買い食いした。
この行事は大正中期までつづいたが、子供が金を貰い歩く事は教育上よろしくないとの反対があつて廃れてしまつた。
                         (金岡地 杉 田 覚 司)



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子安詣り
 重くるしい冬の帷も漸く明け初めた、陽春三月の央即ち十六日になると、女房達が子供を連れて麗らかな春の日ざしを浴びて、子安様を拝みに続々とやつてくる。(子安神社は筆者切替の庭内に有る)御詣りがすむと座敷へ招じて茶菓の接待をする。茶菓と云っても昔からの習慣で番茶に豆煎り(大豆餅米を混ぜて煎つたもの)と云う到つて簡素なものである。それでも皆んな楽しそうに日の暮れる迄、赤児の泣き声や笑声が交錯して随分賑やかな事である。
 又前年の三月以後に、初めて母親になつたお嫁さんは小さな幟旗を奉納して子供の成長を祈願する慣しである。要するに農村の女房達の信仰と休息を兼ねた楽しい一日である。
以上の様に特別に取り立てる程の事は何もないが、この行事は現在わかつて居るだけでも、二百五、六十年以前から同じ姿を伝えて居るもので、現在は勿論将来も続けられて行くのであろう。
 子安神社はその創立年代を詳にする事が出来ないが、古文書に依ると、享保三年三月十六日に、法蓮寺薬王寺不動院、梅庵坊(立野)等の浄侶と村人達を招いて、御祭りをした言う記録も有る。
又今の小祠は元文三年三月に新田村(姉崎)の源右衛門(大工)が再建したと云う記事も発見した。
 信者(主に女達)の奉納した小幟は享保年間以後のものが殆んど全部現存して居つて、今も年々三、四枚づつ増えるので、二百枚以上にもなつて居る。奉納者の範囲は立野だけでなく四隣各村のものから江戸まで及んで居る。之れは何れも親戚関係に依るものと思われるが、中には領主や知行所関係名主関係等の政治的と思われるものも有るらしい。次にその内の一つを写して参考に資する。
 享保十五庚戌年夷則吉祥日
凡奉懸子安大明神御宝前諸願成就如意安全祈所
   願主 立野村切替氏内室 於勝女教白
 凡(サ)は聖観音であるが、中には(ウム)阿閃の種子を表わしたものもある。
 子安神は元来鬼子母神であるとか、慈母観音を本地仏とする等の説が有るが、君津郡南子安の子安神社は、木花佐久夜毘売命を御祭神として居る。飯岡の玉崎神社附近の子安講も同じ神を祀って居るので女神である事は間違いない。又前記の様に、観音、阿閃仏を表わして居るのは、江戸時代の民俗信仰の一面を物語るものてあろう。神仏分離以前の事なので、神も坊さんの御世話になつた時代の事だから幟の文句を初め実に仏教臭い神様である。
                      (立野 切 替 尊 文)



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あんばまち
 南五井の総鎮守は、大宮神社である。この大宮神社の春の大祭は「あんば祭(まち)」といつている。この「あんば祭」は本社の大宮神社の御祭りではなく、その末社か或は摂社である大杉の例祭であると云い伝えられている。
 大宮神社の大祭は菊の香の高い十一月一日である。
 地方語である「あんば」は「阿波」であつて神代史にある四国の斉部族に関係があることになる、「あんば様とか」「大杉神社」とかいうこの社は、大宮神社の松の美しい、参道の南側にある、方六尺に満たない小社である。この小社は大宮神社創建時代のものでなく、後世奥州詣りといわれた出羽三山参拝の東廻りといつた。初期の順路に当っている、香取・香島・息栖・阿波の四社の一つである、「阿波」「大杉神社」を勧請したものであるようだ。「阿波」は「アワ」「アバ」「アンバ」と処によつて発言は違っている。
 南五井は、上宿・下宿・新田の総称で氏神は大宮神社であるが、各区にもそれぞれ、上宿には宿大荒神、下宿には白山神社、新田には水神社などという、小さな昔でいう無格者もある。
 大杉神社のあんは祭りは、明治時代から三月二十七日であつて、「あんばまち」と云い慣はされている、この「あんばまち」は本社で行なれる式典の外に、屋台が出て、沿道を青年や子供達によつて曳かれて、バカ踊りが演じられる。
 昔は屋台を曳いた祭典ではなく御輿を担いた御祭であつたが、御祭り気分で三区の青年が、度々激しい喧嘩をするので、後に屋台に改められたと古老によつて語り伝えられてる、新田の屋台は割合に小型で彫刻なども簡素であつて、狭い村道を曳くに利点が多きい、下宿の屋台は豪華である。明治二十年頃下宿田中に居住した彫刻師某が飯沼産の臣大な欅を心血を注いて刻んだ、一本屋台として名高い、正面欄間の「天の岩戸」や欄干の上の「富士の巻狩」などは眼を見はらせる傑作である。上宿の屋台は明治の中期石川の火事で焼失して、ながく無かったのを大正年間、君津の村落から買入れた、前部の左右の柱には「上少龍」「下り籠」の彫刻が巻ついている中型のものである。
 お祭は「宵マチ」といつて前日から始まる、各家庭では明日の赤飯の用意や酒肴を整える。夕方になると原色でかいた風刺画に狂歌の賛のある、地口行燈か軒並に掲げられて灯が入れられる、その狂歌を面白がって読んで歩くのも春の夜の風物詩であつた。しかしこれも明治三十五、六年迄であつて、日露戦争が始まると、国民は戦勝に酔つて提灯掛が建てられた大きな丸い提灯に前方に「祝戦勝」、後は「御祭礼」と〆縄と御幣の紙が書かれ、両側には御光の射した太陽と日の丸が赤々と染められたのに灯がともされるようになつた。
 祭の前日、青年達は朝から前年解体した、屋台の欅の彫物や柱を、区の有力者の土蔵から運んで、広場で掛矢や木槌の音を高らかに響かせて組立てる、夕方近くになつてようやく組立てを終つて油障子の屋根を張り、裏に黒白のまん幕を張ると屋台は出来上る。屋台の楽屋の間に御簾を下げ、楢干の後に大太鼓一と、小太鼓三つが据えられ、青年連の長提灯が一列にならんでロウソクに火がともされると青年連の宵宮祭の気分は盛上つて、トントン、ドンドンと仁波の囃子太鼓は響き渡る、こうして宵祭の夜は更けて行く。
 新暦三月二十七日は桜には未だ早い、青年達の来ない朝の中・小学硬の学年休に気を大きくした男の子供達が屋台にやつと上って、覚束ない手付で太鼓を打つこともある、青年達や消防の人達が揃の祭の法被姿に豆しぼりの鉢巻姿で集つて、大杉神社の掛軸がかかげられ、これに御神酒を供えられてから屋台の渡御は始められる。青年達は囃子方と踊り方である、消防の方は警護と屋台を曳いたり方向を直すので丸太棒を持って、いつも屋台の側に控えている、区の年番の有力者は黒の紋服姿に白の鼻緒の草履をはいて屋台の前に立って気負い立つ青年達を見守っている。子供達は嬉しがって屋台の前に張られた二本の太い綱を握つて太鼓の調子に合せて「オオカザキア・チロリンノ・ヤアソレ」と引張つて行く、キリキリと四ツの木製の車は乱む。
 青年達に御神酒がまわると、太鼓の音も活気を帯び、屋台の舞台には郷土芸能の馬鹿面踊りの絵巻が繰広げられる。
 この馬鹿面踊りと囃子方は葛西囃子の流れを汲むもののようである。曲目は五囃子といつて五曲あつたらしいが、今は「仁波」「鎌倉」「聖天」「四丁目」の四曲が伝えられ、大太鼓一、小太琴三、鉦、笛の各一の楽器であの軽快な曲が奏せられるのである。太鼓は主として青年達によつて打たれるが、笛はむずかしく呼吸のつづく名人といわれる人が、吹口を唇でしめして吹きまくる。囃子の緩急によつて踊りも違って、ヒヨットコ、孤、お亀など舞われるのだ。上宿では現市会議員田中伊之吉氏などは若い頃蛇の目傘を持って踊る「お亀踊り」の名手として知られ、又現上宿部落会長西村清隆氏も青年の頃の「馬鹿面踊り」の演技は、群を抜いて他の追従を許さなかつたといわれている。
 祭の日には、各家で親類や知人を招待して家はゴツタかえす、街には着飾つた見物客が溢れる。この中を囃子の太鼓が高らかに鳴り響いて屋台は曳かれ、屋台の上ではヒヨットコ踊りが素朴な手振りで舞われ、孤やお亀も踊り踊り続けられる。各家で青年達の労をねぎらう意味の御祝儀「ハナ」をつける。この「ハナ」は金額を倍額に半紙に墨黒々と記されて、始めは屋台の前に、次には側に次々と二、三枚づつ下へと張り足されて、紙は風にひらひらと翻る。祭の高潮は三時頃であつて、三区三台の屋台は交々曳われて、太鼓の音と踊と人のどよめきは、街を祭一色にして湧き立つのだ。
 各戸の祝宴も夕方迄続くが、明治の終りまでは大宮神社の本殿側に、特設の舞台が作られて、夜の部として新田青年連の郷土芸能、仮面を冠つて無音劇の「天の岩戸」や「孤に化され」などが演ぜられたこともあつた。泊りがけで来た親類や、嫁に行つた嫁などが春寒の夜に襟を立てて見物に行つて夜を更したものだつた。
 祭の次の日を「あがりまち」といつた。踊り疲れた人、二日酔の人などもあつて「あがりまち」の朝はいつもおそかった。一年一度の春の祭りはかくして終ると、あとかたづけに一日か二日かかつて、これから農家は「たうなえ」が始められ、桜が咲き菜の花が咲いて、春は闌になつて行く。
                      (上宿 斉 藤 延太郎)



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五月

稲虫送り
 五月の空に鯉幟りが翻る頃になると、町役場から害虫駆除の日割りが通達される。隣近所の人々が共同で竹筒へ石油を入れて苗代へ点下してから竹竿で虫を払い落とすと云うー応科学的(?)な方法で有った。日露戦争頃から大正時代に亘つて見られた農村風景の一駒であつた。処が村の老人達は之れだけで虫の害を除く事は何かしら心もとないので、昔からの習慣の稲虫送りもやらなきや駄目だと主張したのて結局此の行事も行なう事になつた。昔の人は稲虫の害は、悪霊や悪神のなせるしわざと考えて居つた。だからその悪霊を村から外へ追い払えば良いと考えた之れが稲虫送りの行事である。
 藁人形を作り藁の輿の様をものえ乗せて、稲虫の悪霊を祀り込んでから、竹竿を通して二人て前後を担いで先登には鉦叩きが、双盤と言う肉鍋の様な鉦を叩き次が松火持ち、次が輿、その後が又松火以下大勢と云う順序に行列を作って村の御堂の庭から繰り出す、鉦の音と共に。
 「泥虫うんか虫いねもり様の御通りだ」と口々に唱い乍ら村はづれへ送りだす。立野は、まぐさ野と云う山、豊成は旧海保境の馬捨場と云う事になつて居つた。目的の場所へ到着すると、持参の御神酒を輿へ注いでから、松火の火を移して焼却してこの行事は終わることになる。
それから後は、草原へ焚火を囲んで車座を作り、ドブロクの茶碗洒で豊年を祈つて気勢を挙げる。焚火に映し出された、日焼けした元気なあの顔この顔が今でも目の底に残って居る。今にも降り出しそうを梅雨空の黄昏近い頃、野の果てから、カンカンと伝つて来る鉦の音は、来る年も来る年も、同じ季節、同じ時刻に同じ音色を伝へ来る。之を聞く時の忙しい気持は忘れられない。何となく哀愁に満ちた淋しげなものであった。そうして夏の近づくのを告げる刻の鉦でもあった。
この行事も、日露戦争から以降は消滅したので今は知っている古老の数も少なくなった。
                        (立野  切 替 尊 文)



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七月
お盆のナンマイダンボ
 旧暦七月十六日はナンマイダンボ(南無阿弥陀仏)の晩である。子供の頃は楽しみだつた。昼間はお閻魔様で、閻魔大王の地獄絵国と十三仏の極楽絵図をお寺にかけて、念仏講のお婆さんたちの代表が番をしながらお説教の受売りをしてくれた。この講中は隠居した老母で、なぜか地主家の者は加わらなかつた。今でも大掛絵図を見ると私は思い出す。
 その晩になると子供たちは早い夕飯をすませてお寺へ集まつていつた。お寺ではお姿さんたちが百万遍の大珠数と鉦を揃えて待っていた頃を見計らつたお婆さんたちは、須弥壇前の回向座で子供連と円座を作り、大珠数の中座に鉦叩きを座らせオテント(天道)廻りに珠数を廻し初める。先達格の老母は槌形の鉦叩きを持つて、鉦音も高くカンカンカンと鳴らしながら、ナンマイダンポ、ナンマイダンボと念仏を称え出す。この調子に合せて一座連が唱和していく。
大珠数の王は木で造り八畳繰りの大いさで、中の大玉二個には麻の房が附けてあり、これが自分の前に廻ってくると両手で押し戴いた。単調なナンマイダンポにあきが来る頃、誰かがグイッと押える。と老母たちは静廻を念じ、後生極楽を願うの余り子供たちを嗜める。子供たちは面白さが加わつてまたグイッと抵抗していく。鉦は早調子に変り一座は愈々高潮してくる。頃はよしと珠数引きが初まる。子供対老母連の引き合いで、この時が子供たちには一番面白く、私は今でも忘れられない情景である。
 これが始まると大珠数と鉦は子供たちに渡されて村廻りが初まる。今年は反対に南から廻ろうと、各戸の庭先で円陣の鉦を叩いてナンマイダンポが称えられ、その家の安全を祈念し、お礼に一銭ずつの鳥目を貰つた。廻り終ると珠数と鉦はお寺へ返し、集金で菓子を買い分けて貰うのが最後の楽しみだつた。第二次大戦でこの行事も自然と消えていつた。
                      (谷島野 落 合 忠  一)



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いねむしとり
 お正月の始めに、五井の平田に行ったことがある。家の近くの水田の畝道の側に盛土が鍬で五鍬か六鍬位堆く積まれて、その上に松の小枝が挿されていた。その上に藁で作つた小さい櫛形の〆縄がのせてあるものもあつた。稲作に対して農民の信仰の一つの行事であると思う。
 古代の日本の国の異名が、長つたらしく書かれたのを、少年の頃歴史読本で読んだことがある。日く、「豊葦原の千秋の長五百秋の瑞穂の国」随分縁起のよい、美しい、満ち足りた、言葉であると、今でも頭の中に残つている。
 葦の生える湿地帯には、稲が成育する。これが昔からの稲作に対する考え方であつた。西から東へ、東へと伝播されていつた。正確にいえば南西の温暖の地から、北東の葦の生える所ならどこでも適地であると考えられていた。
 今、農耕の遺跡は幾つか発掘せられている、静岡市郊外の登呂や、千葉県木更津の菅生などである。弥生期のものであつて、その以前には石鎌などを使用して、稲穂を摘んだ時もあつたらしいが、この時代には己に鉄器も作られて使用せられていたし、種々木製品も作られて、田下駄などもあつた。
 この未開ともいえる時代から今日まで、水稲栽培に伴う民俗風習を知ることは相当難しいが、明治末期の稲作りに関する行事のいくつかは、思い出の中に、よみかえつて来る。
 長い冬が終つて、桜が咲き菜の花が咲くと、水はぬるんで小魚は泳ぎ出す。岸辺には葦が芽を出す。この頃になると「田うない」が始められて、三本万能が大地に打込まれて、土がひつくり返される。次の「田うない」は「きつかえし」といつて、四本万能で、土ならしして行く。
 この頃お天気のよい日に、「種籾」を「たなえど」に浸す、「えど」というのは「池」「溜池」のことであつて「種浸し池」である。この「池」へ俵に入れられた、「種籾」を池の水面に浮かして発芽をうながす。俵は組合の共同用であるので池に二三十俵、縄を何条か張つて沈下を防いでいる。底になると、魚を挿りに来た五位鷺がこの俵の上へ舞いおりることもある。
 幾日か日数をかさねると、種籾から小さい芽を出す。これを短冊型の苗代に蒔きつけるのだ。この時余分の籾を精米したのが「もうし米」あるいは「やき米」という。これを農家以外の家へ、農家から重箱に入れて贈る習慣があつて、その「もうし米」は味ったが、その意味迄は考えていなかった。
 農家では風薫る青葉の季節に、野に出でて苗代作りを始める。泥はかきまわされて、短冊型の苗代が出来る。忙しいので一家総出で仕事して、萌え出した草の上で、土瓶や茶碗がならべられて昼飯をする。そこえ十位を頭に七八才の男子の子供達が一群となつて    おんぢいな おばちやんな
   焼米一升 くんねいな
   おんぢいな おぼちゃんな
   もうし米一升 くんねいな
 と言葉に唄の節をつけて、手を出しておねだりをする。すると母親らしいのが心得て、お茶受に入れた焼米を重箱から取出して
  「ほれ一升」
父親らしいのが
  「それ一升」
と一握の焼米をさし出すと、子供達は変る変る少さい手に、米袋のロをあけて、嬉しそうにニコニコして貰って、次の苗代田へ唄を唄いつづけて貰いに行く。
 水を深く張つた田では、蛙の声が喧しい。夜になると、石油のカソテラをつるした鰌打のよい季節だ。
 籾が蒔かれ、苗が伸びると出穂である。田植が終ると早苗振舞で、キウリモミで一杯やつて、陶然となる人もあろうし、嫁に行つた娘も骨休みに帰つたりする。
 苗が伸びると虫送りだ。この虫送りの風習はいろいろある。岩崎中村憲四郎氏の話では、虫送りの行事は明治三十五年位で終つたらしい。虫送りには子供達が、腕位の青竹でお神輿の拠き棒のよう二本を縦に、それに井けたに一本結えて藁で御神輿の形を作って、これを十二、三才の男の子達がかづいて、竹のばちで青竹を叩いて、拍子を取って、
  「稲虫を送るぞ
    稲虫を送るぞ」
 と家毎に廻って、いくばくかの小銭を貰つて、菓子など買う代にし、「稲オンヂョウ」と方言でいつている。「やんま」の飛んでいる青田をめぐつて、「稲虫を送るぞ」を声のかれる迄唄い続けて、終りに川へ拠いで廻つた神輿型のものを流して、子供虫送りは終るというのであるが、この虫送りも廃止直前のものてあるので、或はその以前の行事には、賑筆するに足る風習かあつたかも知れない。
 筆者も子供の時、大人達の虫送りに加ったことがある。これは南五井の南方の耕地の夜の畝道を、一と部落四五十人の青年連が一人一人大きを「たいまつ」をともして口口に、
  「稲虫を送るぞ
    稲虫を送るぞ」
 と囃し乍ら農道を行進する。数十の炬火は四辺の暗を輝して、青く伸びて露を宿した稲の一本一本がくっきり解る程明るく、火花は歩くにつれて夜風に散つて人の顔をこがす。この行進は各部落に行なわれた朱の長蛇の這う火の祭典であつた。
 お盆の頃には稲が伸びる。ニ百十日、二百二十日がすぎると秋の収穫も始められて、
  「とり入れ日の出より、日の入り迄」
などと立札が、田圃のあちこちに立つ。新米を笑顔で味う秋祭りも過ぎると、一年稲作の苦労も終り、実の秋を喜ぶ「渋茶」の宴が催されるようになつて、嫁取り婿取りなどの話に花を咲かす、夜長となる。 
                     (上宿 斉藤 延太郎)



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ゆだて
 古くから伝つた、信仰や風俗は世の風潮に流されて、いつとはなしに失われ或は埋れて行く。
 しかしその鄙びた、ささやかな石祠が五井十四軒区に、そこの氏子の人の外にはあまり知る人は無く、古くからの山王様は土地の人だけにあがめられて、今はせばめられた旧道の奥に、氏子の人に守られて、緑の木の多い人家の間に公民館の前に残つている。
 この山王様へ行く道は、今から凡そ三百年前、時の領主神尾五郎太夫守永が宿割した、南北を貫く、主道の東の側道らしく、現在の幅員を土地の人は三尺位といつているが、この当時はもつと広かつたであろう。そしてこの道は明治の中葉迄千光寺へ続いたといわれているが、今では人家が建って曲つた所が出来て、もう見透しがつかなくなつている。
 この宮は十四軒区の東にあつて、昔は砂丘の上にあつたらしく、北は「大野津の浦曲」であつて東へ入江が深く湾入していた。カケ塚とここらを云うが、この辺一帯の地下三尺の所は殆んど一尺余の貝層であつて、その昔は海岸線であつた。そしてその附近では幕末には製塩業が多かつた。
 この宮はいつしか人家の間にはさまれたが、明治の頃は御堂の中にあつたという。この山王様は高さ四尺位の宮形の石祠であつて、屋根もあつく祠の中には大きな御幣があつた。その下の台座には北五井村、願主、惣若者中と刻されのが、風雨にけずられたが読みとることが出来る。右に猿の御幣を待った立派な陽刻があつた。左手はふくよかな神猿の彫刻である、建設の紀年はどこかにあるかと探したが見当らず、裏面の屋根と台座の右は火にあつて、へげて飛び散つたらしく砂損していた、この石祠の前には御影石の四角な石の八尺位の大正年間に建てた鳥居がある。
 この石祠の境内は三十数坪あつて、十四軒区の公民館が背後に建つている。七月十五日はその祭礼の日であるが、旧暦では六月十五日であつたという。
 この山王の御宮の符徳はあらたかで、祈れば必ず験の無い事は無く、同じ夏祭の天王様を遥かにしのいで、詣でる人は境内と道に溢れた、それも火伏と立身を祈る人であつて、その霊験はいちぢるしく、その恩沢は大きかつたと云われている。これによつてか北五井村川岸の船王は、山王様の威徳を慕つてその持舩の五大力舩に山王丸という、舩名を付けたと云われている。
 火伏の神事は「湯立て」といわれた、その行事は古くからあつて火伏を祈るものであつた、南五井の大宮神社の神主が代々この神事を掌つた、佐々木神主、松谷神主など知る人が多い、明治中期或は末期、松谷神主のその神事を目のあたり見て、今それが伝承されている。
 旧六月十五日は田植の終つたころであつて、夏祭の始め山王祭である、この日の四ツ頃(今の十時)に山王様に氏子総代を始めとし、昔の名主、今でいうと区長代理世話人等が礼装いかめしく神前に集つて来る。氏子の老若男女は境内に人垣を作る、祭壇には海の幸山の幸である魚や野菜や果実が推く供えられる。又祭事用の緑したたる榊に小さを御幣の白いのがつけて建てられている。社前には径二尺三寸位、三斗入の大釜は鉄の五徳の上にのせられて、白衣の使丁等が清水をなみなみと注ぎ入れる、五徳の下に一束十二本を束ねた薪が積み重ねられて用意は整つた。
 祭主、白衣の松谷神主は衣冠を正して、氏子や列席の人達に一礼して祝詞をあげ、釜の下の薪に浄火を放つ、カチカチ火打ち石と火打鎌を打ちつけて火を起し、附木につけて薪に火を移す、細身の薪は焔をあげ煙をふいて燃えあがる。神主は拝礼し柏手をうつて懐の祝詞を取出して再び朗々と神前に奏上する、火は焔々と燃えつづけること四半時、水は沸々と湯となつてたぎり、釜に溢れる、使丁が尚薪を加えると湯は白玉となつて飛び、湯気はもうもうと四辺をこめる。
 祝詞の声は更に高くすんで、一声、神主は神前の榊を取ると一振して沸々とたぎる熱湯に浸してしばし、サツト取出して左へ背ごしに一振りすれば、神主はこれを浴びて白衣は熱湯を吸つて肌へ透す。更に榊を熱湯に浸して右へ振れば神主の白衣は湯を浴びて、袴へしとど滴り落ちて行く、左と右へ交々釜の熱湯を浴びると勢あまつて滴は四辺へ散つて、善男善女の晴着を濡らす、かくして湯に浸した榊をふること半時あまりになると、神主の瞳はかがやき、人人はかたずをのんで比の神事を見守つている。
 烈々と燃えさかつた焔もいつか下火になつて、白く灰になつた頃は湯は底の方に僅になる、松谷神主は厳に「湯立て」の式典の滞り無く終了した事を告げると、参列の人人は年番の家へ連れだつて行く、使丁等は手桶に水を運んて釜の下の残火に竹の柄杓で水を注ぐと、赤く火のついた細い多くの残火はしゆつと白い湯気を上げて、黒い薪片となる、これを待ちかまえた四囲の人は、我勝にと争つてこれを拾い取って、白紙に包んで家路へ急いで行く、この燃え残りの薪の端切は白紙の上から麻で結えられて、各家の人口の軒につるされて、火伏せのおまじないとした、信仰の風習であつた。
 この「湯立て」の神事は今はもう見ることが出来なくなったが、宮崎孫七さんや中島徳次郎さんの話によると、明治三十五年頃が最終であつたとの事である。
                              (上宿 斉 藤 延太郎)



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祭囃子
祭神級長津彦命の島穴神社は、平安の昔、延喜式内神名帳に載せられ、上総五社に数られた旧県社である。氏子は島野(小字谷島野・七ツ町(通称中の島野)・(金川原)と白塚村であつたが、近時白塚村は信教の自由で離れたとかいわれる。
 例大祭は毎年七月廿五日で神輿の渡御があつたが、一基のため四部藩の輪番制であつた。祭典行事は青年たちの仕事で、年番村に当ると一ケ月も前から準備にかかるのだ。太鼓の練習・祭典用具の整備・調度品の共同購入・幟建てや屋台作り等の行事が忙しく行なわれて、頗る多忙を極めたものだつた。当日の屋台車には黒白の慢幕を張り、長提灯を一杯に並列し、馬簾で軒先を飾り、表柱に高張提灯をかざして囃子方連中を乗せ、笛太鼓の囃子で神社へ向うのだ。子供連を交えて約十町の道法を曳綱つけて行くのだが、この時の囃子と喚声は子供の心に一段と強く残つている。
 大太鼓ニツ、これに鉦と笛吹きを加えた五〜六人を屋台車に乗せて、正面に菰被りの酒樽を積込むのだ。道中は「本囃子」で遅々と進み、難所にかかると「岡崎囃子」で乗り切るので、この時は木製の車輪がキキイツ‥‥‥と異様に軋むのだ。その音こそは子供心にも忘れ難く今も郷愁を感じている。
 神社到着後は小休の後、神輿渡御になり、「御休所」という所で旅所の義が執り行なわれ、これが終ると自由的な自村廻りが初まつて、これがまた一段と忘れ難いものであつた。氏子四部落を廻り終えもと納めの式になり、屋台車を曳いて帰る途すがら、馬鹿囃子の太鼓で疲れから引立てたものだつた。
 翌日は「花納め」といつて、前日祝儀を貰った自村の家々に御礼の挨拶廻りをするのだ。夕方まで疲れを休めた青年たちは、子供連と一緒に屋台を曳き廻し、十二時過頃まで馬鹿踊りの返礼をするのだ。この時の曲は「ヒヨットコ囃子」といって、仮面の踊り子は手振り身振り面白おかしく踊るので、曲も軽快なものだつた。これがまた楽しみの一つであり、私も踊ったこともあつた。
 昭和大戦とともに忘れ去られた太鼓囃子は、世の移り変りにはまたと勝てず、太鼓を打てる人は年老いてゆき、自然と減り絶えて今ではその太鼓さえも顧みる青年はなくなり、大幟と一緒に年と共に消え去つてゆく祭囃子こそは、まことに寂しい限りである。
                      (谷島野 落 合 忠  一)



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八月

椎津の からだみ
 毎年お盆の十五日の夜行なわれるからだみは、空棺の葬式の事である。その縁起は、今よりおよそ四百年前の事、当時椎津城主椎津小太郎義昌は、里見氏に属していた。
義昌の生れは房州那古の人で早くより両親に別れ、至孝の人であつた。また徳望高く、慈悲心深く、夫人は真里谷信篤の八女輝代姫で、十七才で嫁がれた。その際守神として薬師如来を持ってきたが嫁がれてより三年目、この辺一帯に疫病流行し、死する者多く、ここに義昌平癒祈願のため駒ケ崎に薬師寺を建立し祈願した。その霊験灼にして、領内屏息した。領民は城主を親の如く慕い、又城主も民を赤子の如いたわり、領内は常に無風の如く平和であつた。然しままならぬは常。天文二十一年六月三日北条氏康二万の兵を卒い海陸両方面より椎津城を攻めた。義昌大敗し境川に沿い迎田永藤を経て山谷へ逃げた。主従十九人、漸く山谷の地頭堂へたどり着いた。
矢傷刀傷を受けた義昌は今はこれまでと自殺をはかろうとしたが、夫人はこれ留め、ここにて死する時は世間の人、あなたは刑されたと申しますよとしつかり手を握り、ここは刑場です。元来山谷とは惨谷の意で昔の刑場の跡が多く、義昌は死を思い直し、その時木間より燈火を見て人家のあるを知り、農家に行つてニ、三日ここに隠れ、後高谷の延命寺に行き更に真里谷に行き再挙を計り、昔より一将功成りて萬骨枯るとか、今再挙せば多く犠牲者を出す。それは忍びずと遂に農民となつた。現在その辺に椎津という姓あり又地名に椎津谷椎津くぼの名がある。叉一方椎津方面ではあの城主は今、何の便りもなく大方戦死せし者と考え、五年後漁民達は相談の結果総左衛門 惣左衛門 五郎治 五郎兵衛 仁左衛門が発起人となり、せめても仮葬式なりとも行なわんと計り、現城主をはばかり、夜分に行なう事となし、現在は青年団の主催で端安寺にて萬燈を造り、二本長い綱を引き、その中に仮装の人が多く入り、そりやせ、こりやせ、じやらぼこ、じゃんじゃんじやんと調子をとり薬師寺へ向い、途中八坂神社境内に盆踊をなし、再び薬師へ向い、寺に着けば萬燈をこわす。その時人々は先を争い、そのばれん貰い受け、家に持ち帰り門口にさし、魔よけとした。萬燈の中には棺の仕度あり、ここで葬式の列をつくり棺をかつぎ読経をしながらうちわたいこをたゝきながら端安寺に帰った。この寺には義昌両親の仮墓地があるため、ここの親の所に埋葬したという。
この行事は椎津民の報思の念の厚きを示し、四百年後の今日でも行なわれ、若し行なわぬ時は疫病あるやとの迷信もある。
                        (惟津 竹 内 文治郎)



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篝焚き
 海士から勝間に通ずる新道添いの畑中に、海士有木村の天王様(八坂神社)がある。氏子は以前は海士、中谷原、三又と共に、いわゆる海士有木村の大部落だつた。祭神は素さの男命であつて毎年旧七月七日が例祭てある。今では月遅れに行なわれるが、前日の六日の暁には「篝焚き」が、村の子供達によつて行なわれる。
 各家々から麦稈を二〜三把位ずつ貰い集めると、一方では長谷寺から孟宗竹を一〜二本貰つてくる。天王様の森では椎の木の枝を伐る者もあつた。材料が揃うと竹を中芯に椎葉を結びつけて建込みの大芯を造り、麦稈はその周りに積重ねるのだつた。崩れないようにと周りを縄でからげ、終ると大篝が出来上るのだ。底径は凡そ六〜七尺もあつて、子供達で出来るだけの高さとした。
一方海士の村では天王様に通じている、お宮脇の十字路で、有木の小形の篝を積上げて夜の来るのを待つのだつた。一方有木の氏神八幡神社でも小規模の篝をつくり日示暮れると子供達は、頃はよしとばかりにこの篝に火を入れるのだ。燃え盛るにしたがつて海士勢は一斉に喚声をあげる。とこれを合図に迎え火のように、有木組は大篝に火を入れるのだ。メラメラと燃え盛り天を焦すような火勢になると、バチパチはじける音に爆竹の響きに子供達は興奮に入って一斉に喚声を挙げるのだつた。
 麦稈集めは、麦稈のない家では何がしかの鳥目を呉れるか、またはローソクを呉れる家もあつた。ローソクは天王様に準備しておいた行燈に使うのだつた。篝火と行燈、あたり何か神秘的な気分が漂ってくるようだ。
 この篝焚きは前夜祭であり、氏子中の疫病除けの祈りがこめられている。燃え尽した残火の仕末をした子供達は貰った銭で菓子を買つて分け合い、楽しくこの晩を過すのだ。  終戦後十二〜三年続いたこの行事も、今では自然と消えていったことは、時代に押流されていつたのであろうか。
私は真相を開き漏らした。



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ツツ突き餅
 私の子供の頃はお盆の行事が済むと、次は旧暦八月十五日の晩が待ち遠しかった。その晩が来ると、各戸では月の出に一番近い窓とか雨戸ロに、またそうした場所のない家では、サマグチといつて南側の格子窓のあるもの、ないものにかかわらず、机か茶布台を据えて月見のお供え物がしてあつた。ススキにオミナエシ、カルカヤと坊主頭に似た実をつけた何とか草に、新粟を添えて花立に差してあった。この月見花は宮原の桶屋のお婆さんから買つたものだつた。柿に里芋、田のくろ枝豆、さつまいも等のふかした(蒸物)もので、秋の豊かさを供え、菜種油のお燈明があげられてある。その中心が十五夜餅のお供え物だつた。この餅が子供達のねらいである。
町場では団子をあげるという話であるが、農村では白米を手廻しの石臼で粉挽きをしなければ団子ができなかったから、忙し時であり主に餅を搗いて上げたものだ。直径6cm位の丸餅で、お月様を形取ったものだなぞと教えられたこともあつた。この丸餅を十五夜に因んで十五個を供える。大抵の家がそうしたように、私の家でもなぜか飯櫃の蓋を使って並べていた。食物の豊かさは感謝を込めてか。
 月の出る頃を待ち構えていた子供達は、日のあるうちから準備した竹切れの先端を尖らした、長さ一米位の「ツツ突き棒」を手に手に、村のお寺にひそかに集つた。大勢揃ってツツ突きに行くと、その家の者に悟られるので、二人か多くて三人で組み、各戸を秘かに巡り、餅の上げ場所(供物祭壇)を見て廻ったが、大抵は場所の堆定をつけていた。今夜は子供がツツ突きに来ることを知っている大人達は、警戒している者、油断してる家、忙しく立働らいてる家と、色々あつた。足音を忍ばせてソオット・・‥近付くと、コラツ……と暗闇から突然怒鳴られることもあつて、あわてて逃げ出したものだ。次は隣りの家だ。忍び足で十五夜餅に近付くと、悟られた気配もないので、例の棒をサツ……と突出して餅を刺取るのだ。一ツかニッ位が関の山で、三ッはめつたに刺されなかつた。時には刺した途端にヤローどもオ……と大声で怒鳴られ、折角の餅も刺落して逃げたものだつた。仲間の子供達と出会っては経過を話し合って行事は終り、スリルというか悪行というか、この時の気分は子供心を満足させたものだつた。
 大人になつて振り返つて見ると、このような盗みの行為は余り感心した行事ではなかつた。一方当時の信仰的習慣的の行事であり、子供を鬼に見立てた悪魔追いとか、疫病追いとかの意味が多分にあつたではないかと思う。
 時代は進み教育の力によつて子供の遊びも変り、大正の頃から自然とこの行事は消えていつた。
 月見の晩になると餅をあげるので、子供の頃が懐しく甦ってくる。
  (谷島野   落合 忠一)



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十月

小鷹神社の苞飯
 不入斗小鷹神社では、十月十五日祭典の日に氏神様に村人が藁で作つた苞(つと)を作り白ぷかしと称してもち米のふかした飯を一握程に作った握飯三ケを藁苞に入れ祭日の早朝神社に御供えする風習がある。言伝えに依ると大和武之尊*1此の他に軍を駐め村人が軍をねぎろう意味にて食糧をけんじたと云い伝えられておるが、最近だんだんとしきたりの苞飯を供えに行く人が少くなつた。
                      (不入斗 泉 水 千代吉書)
*1:日本武尊 資料館注



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十一月

つくまい
 物資の交流は古い時代にもあつた。自給自足ということは、止むを得ない環境にあつたからであろう。
 今、五井の大市といわれている、初冬十二月の市場も、ひと昔前は農具市といつたこともあるし、五井の市とも呼ばれていた。
 五井の市について五井のその記録は未だ見て居ないが、四隣の記録でうかがう事が出来る、慶応四年即ち明治元年(一八六八、九八年前)村田川をへだてた生浜の大巌寺村の名主、小池保蔵氏が筆を執つた、「慶応四戌辰年、日鑑」に
 九月三日丁丑、天気吉、伝兵衛壱人拙五井市町に往
 と明かに記されている、この古文書は日記体のもので、今千葉市生浜町の郷土史家宍倉健吉氏が年次十数冊を堆く所蔵している。
五井の市の創始はいつ頃だということになると、その考証はすこぶる難しい。
 守永寺の本堂前に「たかまち」といわれた盛場商人から、奉納せられた巨大な四角な水鉢が残っている。かすかに文字が読みとることが出来て、白井小平次、白井市右衛門、角屋彦右衛門、正月屋熊吉など境内商人として十七人が刻記されている。紀年は弘化二乙巳年十月で西暦一八四五年百十八年前のことであつて、これは五井の市の華やかな頃の遺物てはあるまいか。
 上宿の伊藤芳太郎氏や中島滋さんなどの家は、世襲のように市場の世話人をする人が代々多かつた。先日きいて見たらここの家にも古い記録は何一つ残つていないということである。
 しかし、記録は無いが古老の話が開き伝えられて、かすかに残っている。それを手操ると約百年位前の事になる。
 江戸深川に釜六、釜七という鋳物を取扱う金物問屋があつた。この二軒の巨商は伝馬船で鍋釜を運んで、北五井の大野津の浦に着く、この舩の着いて荷上したのは毎年のことてあつたので、市場河岸と呼ぶようになつた。勿論この河岸から鍋釜商の外に江戸商人は、古道具や指物など多様な物資を荷上した。市場河岸や新河岸は今でもその名が残つているが、あそこがその頃の五井港の岸壁であつたのだ。
 荷上された鍋釜が荷解きされると、包装用の縄や藁屑が不用になる、この不用の藁屑を利用して、五井名物の「つくまい」の舞台がつくられる。
 この「つくまい」は、その頃房州街道の宿駅であつた五井の中央上宿の十字路(中宿、大上宿、横町、下谷)の街道をまたいで、提灯をつける「町またぎ」と「つくまい」の舞台が、松本、角屋の前に二つの高い舞台がつくられる、この「つくまい」の舞台は非常に高く、電信柱位の高さであつて、四方に綱を張られ、この上の舞台の広さは詳でないが、多量な藁くずを使用せられたということである、この上で下のお囃子に合せて、一つの舞台に一人づつ舞うのだが、舞が高調に達すると、狂獅子のように、両方から隣の舞台へ掛声諸共相互に飛移る、危険極めるはなれ業もあつて、下から見る人の胆を冷したと伝えられている。そしてこの「つくまい」は上宿の人が舞って、薬師堂の門前町である横町の、昔は屋根師であつた屋号新右南門の先先代や、矢張横町屋号弥次兵衛の先代などは、胆も太く、その舞い振りは豪快で名人中の名人であつたとという。
 この「つくまい」は昔関東に二ケ処あつたその一つで、郷土芸能としては異色のものであつて、この舞を舞うには一週間の潔斉の行を行なわなければ間違があると云われた程神聖視されたものであつたが、危険があるのでいつか中絶されて、詳細なことは伝っていない、今これに使用したといわれる桂が、善養院の丹塗の薬師堂の縁の下にあるという。
 郷土史家の先輩伊藤サ氏が日本郷土舞踊の研究会から、幾度かこの「つくまい」の事について問合せがあつたが、その資料はついに見つからなかったといっている。
一百年前の五井の市は、お囃子の音賑かなこの「つくまい」によつて幕があけられて、四辺の物産の交易が行なわれていたらしい。
私の知っている明治の末期には、菊の咲く十一月初旬、市は横町を中心として行なわれた、一日はその初日であつて、善養院の門前に高い二木の幟柱が建てられて、天辺の青の笹の下に、一木には六尺位の白布が翻り、一本には同じく赤い布地が翻った。こうして市の開始を知らせたが、口さがない人人はこの紅白の吹流しのような旗を眺めて
 「五井のふんどし市かはだつた」 
 といつたものだ。
 善養院の境内には、関東一といわれた竹沢佐十郎親分の改良剣舞団の金銅糸まばゆい小屋がかけられ、白地に赤のふちをとつた幕をはつた早取写真という、ガラス取りの写真屋や、ドッコイ ドッコイという街頭の賭遊びなど、四辺の「チヨイチヨイ買いな」という玩具商や日用品商とゴツタ返す露店商の中に、著しい明治調を漂せていたものであつた。
                    (上宿 斉 藤 延太郎)



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出羽三山行入行事覚書き
 山形県にある羽黒山、月山、湯殿山の三山は古くより山獄信仰の霊地として重んぜられていたが、江戸時代の頃より次第に沈滞してきた。しかし、民俗的な三山信仰は今も盛んに行なわれている。
 市原市内でも出羽三山の信仰は、不入斗、荻作、今津朝山、深城、椎津など恐らく数十部落に及ぶと思うが、一般には衰微の傾向が強い。しかも信仰や修業としての厳しさは殆んど影をひそめつつある。
 不入斗部落においてもこの例に洩れず、その消滅を心配した同区の文化財研究員の方々のお骨折りで、行人生活の採録と撮影を行なう事ができた。なおこの採録と撮影は、市原市教育委員会より大室と青木が参加し行なつたが、その折当日の参加者よりその行事について知る事が出来たので、以下簡略に報告しておきたい。
 不入斗部落で出羽山の信仰がいつ頃から行なわれるようになつたかは知る由もないが、今に残る文化年間の行屋堂の「カヤ」をみると、既に江戸期においてもこの行事が盛んに行なわれていた事が分る。
 行人になるには行屋堂において行人としての修業を積まねばならぬが、これは行人の古老の推薦で、主に部落の妻帯者のうちより長男が選抜された。この新人の行人を新行というが、新行は行屋堂において五〜七日間宿泊し、行人の言葉を借りれば軍隊の新兵のように厳しい生活を送らねばならなかつた。この指導は、火の親″といわれる行人の古老(火の親は出羽三山に参詣した古い順になり、年令による考慮はなかった。不入斗は四組に分れていた為四人の火の親があつた)が中心となり、また、行人のうち、都合のつく者により行なわれた。
 新行となり、行人宿に行く者は、その日朝食をとらずに出掛けた。行屋堂における修業は神聖であるから、所謂在家の人(行人以外の人)の炊いたものを食べて来る事は許されなかった。特に婦人関係は厳しく、例えば行人の着用する白衣を月経のある人が作る事は許されず、多くは老女の手を煩した。また新行が行屋堂に籠る日、夫々ふとんを持参したが、そのふとんは家庭においての使用を許されず、別に格納しておいた。なお、行人の持物(けさ、白衣など)も別の容器に納め、行人自身の手で整頓された。
 さて、行屋堂に入ると、先ず火の親が火を起し、古行がそれを囲んで読経した。その日から読経と、写経(古行より経の本を借りて写す)と、袈裟を作る仕事が初まるが、その生活妃は厳しい戒律があつた。
 行屋堂は八畳と十二畳に分れていたが、新行は囲炉裏のある十二畳の部屋へ入る事は許されなかつた。従つて火起し(囲炉裏の火は点すと最終日まで消さない)も、火種を絶やさぬ事も、炊事も一切火の親や古行の手を煩したが、反面食事も火の親の指導がなければ摂る事もできず、その分量もつけ盛りで終つた。食物は野菜などを投げこんだ粥で、親養い(おやしない)といつたか、一日一食或は二食であるから、空腹は余程身にこたえたらしい。たべ終ると鍋を水で洗い、その水を分ち飲み、その後で鍋を洗うことも許されなかつた。
 この採集の時、誰もが一様に先ずこの食事の事に話がとぷ。兎に角空腹に堪えることが、この修行の大きな要素でもあつたようだ。
昼などには麦こかしをたべる事が出来たが、空腹を満すには遥かに及ばなかった。
 めしを盛る時、さばと言ってその一部を別に盛り、無縁仏に上げたが、これはあとで適当な時間に新行に平等に分けられた。これらの切盛りも一切火の親の胸三寸にあり、とに角行屋堂における絶対権は火の親の手に委ねられていた。
 読経は随時行なわれたが、朝夕行屋堂に安置する大日如来に向つての一時間づつの読経は、欠かせぬ大切な行事であつた。
 自宅が行屋堂の近くにあつても帰宅を許されない。日々の行事は単調で、また時間的にはゆとりもあつて退屈でもあつた。この退屈に堪えることも苦しい修業の一つといえよう。
 この期間中、在家の言葉を使う事は禁止され、所謂行人言葉を用いた。これには色々あるが例えば白岩(豆腐)くされ(味噌)むらさき(醤油)おひや(水)しゃり(米)まがり(キセル)よせ(はし)くぼ(茶わん)などで、これは床のケタに半紙に書いてはつてあつた。若しこの行人言葉を使わず、在家の言葉を使うと罰として茶わん一杯の水を飲まされた。但し、むしごのはし、とのうように、初に「むしご」を用いると、在家の言葉でも差与えなかつた。
 古くはこの期間の半ば頃、うしみつの刻に起きて線香の灰を飲み、身体を清める事もあつたというが、今の行人たちは話として知っているだけで、その事は実行した事はないようである。
 新行はその修行中、海水を浴びる「潮ごり」の行事を行なつた。白衣とけさをまとめ、裸足でほら貝を吹く古行人を先頭に近くの海岸まで歩いた。古行人につづいて新行が海に入り、経文を唱いながら手で海水を我身にかけ身を浄めた。なおこの時「湯殿山御祝辞」と書いた板二枚も持参し、これにも海水をかけた。  これに似た行事が古行人にもある。 一年のうち六月頃になると五穀成就を祈るため、また八月には豊凶に拘らずそのお礼のため水ごりを取った。ほら貝を吹く人を先頭に、白装束姿で川に入り、手で水を我身にかけて身を浄めた。この時、行人の家へは近所から行屋見舞といつて麦こかしや野菜などの見舞があつた。この行屋見舞は、新行の修業中にも新行見舞として行なわれた。  さて、このような行をすると、行屋堂内に張りめぐらしたしめ縄に、しめかぎりのように紙を一枚たらした。今でも不入斗には、沢山の祇をはさんだしめ飾りが、すすですつかり黒ずみながらも残されている。
 新行の修業も、愈々最終日になると「精進落し」が行なわれた。近所の商店などの部屋を借り切り久々に酒肴でその労苦を忘れた。
修行中禁じられていた生ぐさものも、こわめしも、初めて食べる事が許された。随分苦しい修業であつたから、この日の楽しみはまた格別であつたという。
 この新行の生活が終ると、初めて行人の仲間入りをすることができた。
 行人は機をみて出羽三山に参詣するが、高地にあるため夏季が選ばれた。これも五〜七日の行程で、この時「腰梵天」を貰つて帰った。これがたまると、三山を祀る塚に埋めるが、これが梵天納めといわれる盛大な行事であつた。山車は出る、芸能大会は行なわれる。
四隣町村に呼びかけて、大勢の来客があるが、酒はのみ放題、このため用意する酒の量は莫大である。この接待費は並大底ではない。
従つて、不入斗部落で梵天納を行なつたのは大正末期のことで、恐らくこの行事が再び繰り返されることはあるまいとの事であつた。
 行人は、八日溝と言って毎月八日になると行人宿に集まり「真言」を三回も唱えたが、最近はその集まりも悪く、諸事簡略となり、修行というより、お茶でも飲むというようになつてしまつた。
 行人行事の最盛期は皇紀二六〇〇年頃までという。この頃は不入斗でも、六〇世帯中五〇人位の行者があつた。太平洋戦争への突入は、この行事を簡略にし、次第に哀微の方向を辿らせ、もうこの行事も、過去のものになる日も近いように思える。今、不入斗部落七八世帯中約四五人の行人がいるということであるが、八日講に集まる者ももうあまりいない。今回の採録のため、十六名の行人の参加を得られたが、これだけの行人の集まることは久々であつたという。
不入斗の行人が、出羽三山に参詣したのも昭和二十六年で終っている。
                          (大 室 晃)
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 行入行事採録のため、左の方々の御参集をいただいた。紙上をお借りし、厚く御礼申上げます。
時 谷 喜 重片 岡 良 吉
榊   春 雄杉 本 孝 次
榊   繁 雄片 岡   馨
鈴 木   実安 田 善 助
泉 水 定 吉松 本 喜 俊
泉 水 半 蔵露 崎 勝 利
泉 水 千代吉斎 藤 福太郎
泉 水 良比古露 崎 善四郎


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