戦国時代、土気、東金に上總衆と呼ばれる地方勢力があった。
それが酒井氏であり、中世から近世の百年に及ぶ支配はこの地方に大きな影響を与えた。
その一つが日蓮宗日什門流(顕本法華宗)を庇護し、領内を日什門流とする政策をとったことである。
酒井氏の祖 酒井定隆は、土気、東金の新領地に進出した際、馴染みのない領民の政治的統一と安定を求めるため、定隆が帰依していた日什門流に領内を統一することを目論んだ。
当時、この地域は天台・真言の二宗を中心としていたが、これにより多くの寺が改宗させられ、上総法華10ケ寺とよばれる中心寺院の基礎はこの時できた。
これが「皆法華」「七里法華」などとよばれるものである。
当時の日蓮宗は京都をはじめ各地へその勢力を伸ばしている時期であり、酒井氏の領民統治の思惑と日蓮宗の地方への教腺拡張の動きとが合致したところに「七里法華」が生まれたものと云われている。
「七里法華」と対比されるものに西の備前法華と呼ばれるものがある。これは備前松田氏によって行われた領内の改宗である。それは「改宗に従いざる寺は焼き払う」という妥協のないものだったという。
姉崎地区にも妙経寺を始めとする多くの「顕本法華宗」の寺院が現存するが、この「七里法華」の影響が大きいと思われる。
<酒井氏>
浜野を本領としていた浜氏の清伝(定隆)は勢力を拡大して酒井氏を名乗り、長享2年(1488)土気城に進出し、東金までを押さえることとなった。
酒井氏は北条と里見の覇権争いの中で、ときには北条、あるときは里見と揺れ動いたが戦国群雄の間にあって、上総衆、あるいは両酒井と称され「とけ城 300騎」「とうがね城 150騎」といわれる軍事勢力をもち、約100年に渡って下總東部に君臨していた。
酒井氏の祖 定隆は土気城に進出を果たしたものの在地性に薄かったため領国内を残らず日什門流に帰しめ、政治的統一とその安定をはかった。
このため多くの寺院が改宗させられ、領民も法華宗に帰依していった。
これが「七里法華」といわれるものである。
定隆に続く代々の酒井氏も日什門流の庇護に勤め、近世の上総10カ寺と呼ばれる中心寺院の基礎、および、この地方の熱い法華経信仰の基盤はこの時代につくられた。
酒井氏は北条氏の小田原城篭城に参加し、天正18年(1590年)7月豊臣秀吉による小田原城攻めにより、北条氏とともに約100年に及ぶ歴史を閉た。
<日什門流(顕本法華宗)>

日什門流の祖である玄妙日什は会津に生まれ、比叡山にのぼり天台宗を学んだが晩年、日蓮宗に帰依して下總間中の弘法寺・中山の法華経寺に学んだ。後に京都で宝塔山妙満寺を創り、祖道の復古を叫ぶ日什門流をおこした。元中五年(1388)のことである。
妙満寺の十代日尊のもとで学んでいた日泰(にったい)は関東の伝道をこころざし、日什の勉学の地である下總・上総で布教の活動をおこなった。そして文明元年(1469)下總浜野に本行寺(写真)を興した。日泰は定隆の庇護を得て、酒井氏領内の寺院の折伏、新寺創建を推し進め、新興の日什門流の発展の基盤をこの地に残した。
明応5年(1496)頃、日泰は京都に上り、権大僧都に昇格し本山妙満寺の16世を継いでいる。同7年本行寺へ帰り、永正3年(1506)75歳にて遷化した。
上総法華10カ寺
寺院名 | 創建・改宗年 | 前宗派 | 所在地 |
本寿寺 | 長享二年 | 創建 | 千葉市土気町 |
善勝寺 | 長享二年 | 真言宗・極楽法寺 | 千葉市土気町 |
蓮照寺 | 明応五年 | 信楽寺 | 大網白里町 |
本国寺 | 文明三年 | 真言宗・善興寺 | 大網白里町 |
西福寺 | 文明二年 | 天台宗・西福寺 | 東金市 |
本漸寺 | 文亀元年 | 禅宗・願成就寺 | 東金市 |
妙徳寺 | 永正五年 | | 東金市 |
本松寺 | 明応五年 | | 東金市 |
法光寺 | 長享二年 | 真言宗・西法寺 | 東金市 |
蓮福寺 | 天正八年 | | 茂原市 |
参考文献
『市原市史・中巻』 市原市教育委員会