「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

湿津の名は、承平年間(931~938年)に源順が撰進した倭名類聚抄に「市原郡湿津郷は菊間・市原両郷の東にして……」とあって、当時からこの地の総称として呼ばれていたという。 (市原郡誌)
 文明年間(1469~1487年)、里見家の重臣酒井定隆が大椎(千葉市土気町)に城地を再輿するに及んで、潤井戸を始めとするこの地区のほとんどがその領地となった。このことは、酒井氏が行った「七里法華」により日蓮宗派の寺院が多く現存することからも推測できる。
 天正18年(1590年)、豊臣氏が天下を統一するに及んで、徳川氏の領地となる。市原郡誌によれば、元和5年(1619年)、永井信濃守尚政は潤井戸に1万石を加増された時、潤井戸に陣屋を築いたとある。寛永3年(1626年)、永井氏が下総国古河城に移ったことで、この陣屋は廃されたという。また葉木は寛政5年より下総高岡藩領と旗本加藤氏の相給、勝間は旗本領と下総古河藩領、潤井戸は享保期から佐貫藩領となったほかは代官や諸旗本に支配された。
 慶応3年(1867年)の大政奉還により、明治元年(1868年)7月、宮谷県の所轄となり、同年11月、鶴舞藩主井上河内守の領地となる。同4年(1871年)の廃藩置県により、同年11月、木更津県の所轄となり、同6年(1873年)に千葉県に属す。明治11年(1878年)の郡区町村編制法により、千葉市原郡役所の所轄となり、犬成・滝口・大作・葉木の4村と荻作・小田部・神崎・久々津の4村は各々村連合を組成し、勝間村は小倉村外3村と共に、また潤井戸・下野・喜多は3村をもって各々村連合を組成した。明治17年(1884年)の戸長役場所轄区域更定により、犬成・大作・葉木・滝口・喜多・荻作・小田部・神崎・勝間の9か村は同一戸長役場の所轄区域に属し、潤井戸・下野・久々津の3村は瀬又村外3村と共に潤井戸戸長役場の所轄区域に属した。明治22年(1889年)の市町村制施行により、潤井戸・下野・久々津・喜多・犬成・大作・滝口・葉木・勝間・小田部・荻作・神崎の12地区は一括して自治体となり、新村の名称はかって当地区内に湿津郷があったということに因んで湿津村と称した。
 昭和28年(1953年)に町村合併促進法が施行された後の昭和30年2月11日、市東村及び湿津村の合併が実現し、市津村が設置された。村名は市東及び湿津村両村名の一字宛をとったものである。同36年4月、市津町となる。さらに昭和38年5月、市原・五井・姉崎・三和町とともに5町による合併の結果、市原市となる。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より