「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

海上の地名は、すでに古墳時代(上海土国)にあらわれている。上海上国の中心は一時期今富付近にあったとかもわれ、市内最大級の前方後円墳(塚山古墳)が存在する。また市内最古の寺院址の一つ今富廃寺(7世紀後葉)があることなどもそれを裏づげるものである。上総国府の設置に伴い、海上郡に属した。当時、国府と国府を結ぶ道は各部の郡家を経由したところから、海上郡の郡家は、現在の小折の地であろうと思われる。
現在海上小学校のある台地は神代城の二の丸跡であると思われ、戦国時代、城主は椎津城の武田氏に従っていた小豪族であると言われている。その後、里見義堯の支配となる。当時、北条氏綱と関東の支配権を争っていた関東管領山内上杉憲房が没すると憲房の実子憲政は幼少であったため、足利高基(古河公方政氏の嫡男)の次男憲広がその管領職を継いだが、後にその職を憲政に譲り自らは里見氏を頼り宮原村へ隠棲し、名も足利晴直と改め居館を宮原御所(現在の明照院)と称したという。
 明治維新前は、ほとんどの地が幕府領か旗本の知行であった。
 明治元年7月、房総知県事柴山文平、同年12月、鶴舞藩主井上正直の所轄となった引田を除いて菊間藩主水野忠敬の所轄となる。明治4年廃藩置県により木更津県、同6年千葉県となり、 同11年の郡区町村編制法により3つの村連合を組成し、千葉布原郡役所に属した。明治22年 市町村制施行により、現在の海上地区及び東海地区の一部から成る海上村が成立し、役場を分目に置いた。
 昭和30年、海上村、市西村、養老村が合併し三和町となり、同31-32年にかけて今富、 小折、柳原、西野、十五沢及び宮原、神代、引田の一部が五丼町に編入された。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より