「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

往古、海上郡(旧上海上国)に属し、その後、郡名も改められ、海保郡と称したこともあったが寛文(1661年)以前に市原郡に合併された。
古来より当地区はかなり栄えていたらしい。
特に海保地区には、上海上国造の墳墓といわれる八幡台古墳があり、国造が当地に住んでいたという伝説もある。又、公家の台、御腹台と呼ばれる所があり、更には、海保神社、森厳寺、遍照院等の神社仏閣や出羽三山信仰に基づく県下最大級の大塚(供養塚)があることからも往時の興隆の程が窮える。
 一方、延喜式内社上総国5座の一つに数えられる島穴神社のある島野は、往時の交通の要路で大宝令に基づく駅馬・伝馬の制により駅馬が置かれ、古くから開けたところであった。
 島穴神社の祭神志那津彦命は、風の神で日本武尊が走水で暴風雨に遭われた時、この神に助命を祈られたので、無事上陸後これを祀ったといわれる。
源輳朝が下総へ兵を進める時、島穴神社に神田36石を寄進したといわれ、又松平定信は自筆の扁額を奉納した。
 廿五里にある宇佐八幡神社にも頼朝伝説がある。同神社明細帳には「鎌倉公甚だ崇敬篤く、年毎に幣帛を奉るを以って使者を遺はさる。当時鎌倉を距ること二十五里、今津井比地なるを以って村名に名づく」とあり、廿五里の地名の由来が鎌倉からの距離によることが窮われる。
江戸時代においては、当地区は細かく分割され大部分が旗本の知行や代官の支配地となっていた。
 明治に入ると6年の区制実施による大小区分画、11年の郡区町村編制法の施行及び17年の戸長役場所轄区域の更定が行われた際に千種地区の一部村を含めた形で合併・分割を繰り返してきた。
これは千種村の一部村と農業用水利施設の共同利用等において密接な関係を有していたことによるものと思われる。
 明治22年の市制及び町村制の施行に伴い、廿五里.野毛.町田.海保.島野.飯沼の6村を合併して東海村が誕生した。
 その後、昭和28年制定の町村合併促進法に基づき、29年11月五井町と合併した。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より