「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より
この地区は、古来市原郡に属していた。里伝によれば吉沢はもと江田郷と称し、古くは平蔵・吉沢を通じて吉沢の名称であったという。また寛永18年(1641年)の水帳には長南領吉沢村となっている。戦国時代、土橋平蔵忠勝は、この地に吉沢城を築き在城しており、同時代末期には小田原北条氏の幕下であったが、土橋忠吉の時、豊臣秀吉軍によって落城Lたという。
土橋忠勝は、平蔵城主土橋氏の一族で、平蔵城の支城として吉沢城を築き、この守護のため本家の建立した西願寺光堂を見本に善福寺観音堂を建立した。(現在は鳳来寺の所管)
徳川の時代にはほとんどが旗本の知行となったが古敷谷の一部(木戸脇)は幕府領・小谷田も寛政5年に一部幕府領、幕末には鶴牧藩領、旗本知行などがあった。
明治に入り宮谷県管轄となり、同2年鶴舞藩、同4年木更津県、同6年千葉県の管轄となった。明治11年郡市町村編制法施行の際、吉沢村は新井村、米原村と村連合を組成し、古敷谷村は1村で独立した。同22年の町村制の実施により4か村が合併し、地区全体が山に富んでいたことから富山村と称し、役場を古敷谷に置いた。
昭和29年には町村合併促進法に基づき近隣4か村が合併し、加茂村となった。
「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より