「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

戸田の歴史は古く、中高根南原遺跡からは1万年以土も前の縄文草創期の遺物が、その近くには先土器時代(2-3万年前)の遺跡が存在するとみられている。中高根金比羅台には前方後円墳を含む古墳群があったが、造成により消滅している。国分寺より古い二日市場廃寺は、この古墳群に関係する豪族が造営したとみられている。南岩崎報恩寺台には古墳群、馬立浅間山には横穴古墳が存在し、養老川流域低地開拓の往時がしのばれる。上高根から中高根の台地上は、古代重要な交通路であったらしく、瓦塔を出土した藪の原廃寺がある。
 また日光寺(風戸)の創建や常住寺に足利尊氏が祈とうの教書を下符(1338年)したり、 鶴峯神社の創建(1227年)など古代末期から中世にかけての歴史の一端がうかがえる。「神代本千葉系図」には戸田七郎常政の名が見えるが、おそらく鎌倉時代初期にこの地を支配してい た地頭であろう。
 戦国時代になって佐瀬(武田)国信が嶽城(佐是城)を天文19年(1550年)に築城し、この支城として上高根城や南岩崎砦を築いた。この上高根城は、当時武田氏が兵力増強のため馬牧として重要な所であったようである。この地区では、昔からの伝説で上総武田氏が滅ぼされた旧暦7月13日に武田氏の涙雨が降ると言われていることからも、この地での武田氏の力は大きかったのではないか。
 その後江戸時代は坂部貞之丞等の所領であった。
 明治11年の郡区町村編制法施行の際、上高根、中高根、風戸、安須、高坂で一連合をなし、馬立、上原、南岩崎、寺谷、栢橋で一連合をなしていた。
 明治22年の町村制実施にあたり馬立、上原、上高根、中高根、風戸、南岩崎、寺谷、栢橋が連合し戸田村という自治体が成立した。この戸田という名称にはう余曲折があったらしいが、この地区に戸田という小字が3か所(馬立に戸田堰、戸田前、南岩崎に戸田代)あったので戸田村という名称をつけたという。
 大正13年に牛久町に合併、昭和29年に南総町となった。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より