「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

古くは海上郡、続いて布原郡に属し中古、青柳、今津朝山、白塚の三村は市西荘の地、柏原村は海上荘の地であったと伝えられる。
古語拾遺によれば、「天富命は、日鷲命の子孫を率い、肥沃地を求めて阿波国に渡り、穀や麻の種子を播きましたが、更に沃壌の地を求めるため、阿波斎部の一部を引連へ東土に行きました。そこで麻や穀の播殖に努めましたが、好い麻の出来た土地を総の国、また穀の木の盛んな土地を結城郡と名付けました。」とあり、古代房総の地が麻の産地であったことがわかる。
今津朝山はもと今津村、麻山村であったと言われ、麻山は古代麻の栽培が盛んであったことより起きた地名といわれる。
又、今津朝山の鷲神社の神官は代々麻薙氏であり、麻の栽培等により古代より開けた地であったことが窮える。
江戸時代においては、青柳の一部が佐貫城主1万6千石阿部駿河守の所領であったほかは、大部分が諸旗本等の知行であったらしい。
明治4年の廃藩置県により宮谷県、木更津県を経て同6年千葉県の管轄となった。
そして、同年の区制の施行に伴い第5大区1小区に編入され、同8年天王河原村を青柳村に合併し、9年5大区2小区に編入され、次いで11年郡区町村編制法施行の際、青柳、白塚の2村、今津朝山、柏原の2村は各々村連合を組織し、又松ケ島村は出津村外2村と共に村連合を組織した。
明治17年戸長役場所轄区域が更定された際、青柳、今津朝山、柏原、白塚の四村は、同一戸長役所轄に属し、松ケ島村は廿五里村外5ケ村と他の同一の戸長役場に属した。そして、明治22年の市制及び町村制の施行に伴い、松ケ島、青柳、今津朝山、柏原、白塚の5ケ村が合併して千種村が誕生した。新村の名称については、往時この一帯が千種浦と称され歌名所であったというて所伝に因み、千種村と決定されたといわれる。
 その後、昭和28年制定の町村合併促進法に基づき、昭和30年3月20日、五井町と合併、更に31日今津朝山、白塚、柏原の3部落が姉崎町に編入されている。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より