「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より   

承平年間(931~938)の頃、市東は2か所にわかれていたという。東部を千葉市±気の大椎の城地で上野郷(東国吉、金剛地、奈良、古都辺、高倉、板倉)と称し、西部を永吉の城地で市東荘(永吉.瀬又.高田.中野.押沼.番場)と称していた。したがつて、当時、東部と西部ではその文化や生活を異にしていたものと考えられる。また、大椎の城地を上総介平良兼が支配していたこともあつて、この地には平将門に関する伝説が多い。特に、地名の由来では奈良は将門がこの地を平安京に対する奈良に擬したことから、古都辺はこの古き都の辺りとして名づけられたといわれている。
 それから約5百年後の文明年間(1469~1487年)に、里見家の重臣酒井定隆が大椎の城地を再興するに及んで、この地は同一に治められる様になったという。これは、酒井氏が近隣の寺院を日蓮宗を改宗せしめる「七里法華」という改宗運動を展開したことによる。この影響がいかに大きいものであつたかはこの地に現存する寺院が概ね当時の創立及び改宗によることからも窺える。
 その後の群雄割拠にあつて、再びこの地の名称はひどく混乱し、郡名 荘名の別さえわからなくなつたという。江戸時代に至っては幕府直轄による代官及び諸旗本が細分化して支配した。
 慶応3年(1867)の大政奉還により、明治元年(1868)7月宮谷県の所轄となり、同年11月21日、東国吉・高倉・板倉・金剛地・奈良・古都辺6か村は鶴舞藩領となり、高田・瀬又・押沼・中野・番場は菊間藩領となる。明治4年(1871)の廃藩置県により、同年11月、木更津県の所轄となり、同6年に千葉県に属す。明治11年(1878)の郡区町編制法により、千葉市原郡役所の所轄となり、瀬又・番場・中野・押沼の諸村、東国吉・永吉・高田・高倉の諸村、金剛地・板倉・奈良・古都辺の諸村は各々村連合を組成した。明治17年(1884)の戸長役場所轄区域更定により、瀬又・番場・押沼・中野の諸村は潤井戸他2カ村と共に潤井戸戸長役場の所轄区域に属し、東国吉・高田・高倉・永吉・金剛地・板倉・奈良・古都辺の諸村は東国吉戸長役場の所轄区域に属した。明治22年(1889)4月の市町村制施行前の同21年に、東国吉・金剛地・板倉・奈良・古都辺・永吉・高倉・瀬又・高田・中野・押沼・番場の12地区は一括して自治体となり、新村の名称は関係村の内かって市東荘にあったとのが多かったということで市東村と称した。
 昭和28年(1953)}三町村合併促進法が施行された後の昭和30年2月11日、市東村及び湿津村の合併が実現し、市津村が設置された。村名は市東村及び湿津村両村名の一字宛をとったものである。同36年4月、市津町となる。さらに昭和38年5月、市原・五井・姉崎・三和町とともに5町による合併の結果、市原市となる。なお、昭和28年から市合併に至る間にいろいろな動きがあって、特に板倉地区は土気町との合併を望み、昭和38年4月、土気町(現在千葉市)に合併した。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より