「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より   

この地区の沿革については不詳であるが、縄文時代中後期の貝塚である山倉貝塚からは住居鉦等が発見されている。古墳時代には、地形上養老川流域の平野であることから上海上国造の支配下であったと思われそのころの築造山倉1号墳からは人物埴輪・円筒植輪等多数検出され有力豪族の存在が考えられる。大化の改新による国府設置に伴い上総国市原郡に属した。
 この地区の地名で知り得る最古のものは、延喜年中(平安時代前期)に式外の宮社として定められた建市神社による武士である。
群雄割拠時代は各武人の治下にあり、天文21年(1551年)、里見義堯によって攻略された二階堂実綱が居した蟻木城跡及びその供養塔であると思われる石造十三重塔が海士有木に残っている。この蟻木城は、その後椎津中務少輔が支配したが、天正3年(1575年)、里見義弘によって落城されたという。また、現在の市西小学校地にあった小野山城は、蟻木城落城後、北条綱成による築城といわれ、北条の武将である小野修理が城主であったが、天正18年(1590年)、豊臣の部下である浅野長吉によって落城したといわれる。
 明治維新前にはほとんどの地が諸旗本の采地であった。
 明治元年(1868年)、房総知県事紫山文平の支配となり、同年12月、菊間藩に駿河国沼津城主水野忠敬が転封され、相川(鶴舞藩主井上正直の所領)を除いてこの所領となり、同4年廃藩置県により木更津県、同6年千葉県、同11年郡区町村編制法により千葉市原郡役所に属し、同17 年市原郡市西村(市原村西広を含む)となる。
 明治22年(1889年)、市町村制施行に伴い、現在の地区から成る市西村が成立し役場を海士有木に置いた。市西の地名は、市原郡の中部を市西荘と称したことに由来すると言われ、江戸時代前期の海士有木長谷寺の鐘銘に市西荘と記されていることからも窮える。
 昭和30年、町村合併促進法により、市西村、養老村、海上村が合併し、三村和合の願いをこめて三和町と名付けた。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より