「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より 

この地域の歴史は大変古く、古墳時代には菊麻国造が置かれ、成務天皇の時大鹿国直が任ぜられた。市原市には数多くの古墳があるなかで、前方後円墳を中心とする最も大きな古墳群は姉崎とこの地にあり、当時の繁栄を物語っている。
また大化改新後は、菊麻郷となった。
 しかし、群雄割拠時代には地形上城地としての要素が欠けていたことからほとんど忘れかけられ上総土気の配下に帰していた。
 江戸時代には、草刈が享保~天保のころ伊勢西条藩のち五井藩領、幕末は鶴牧藩領であった外は、旗本領地として6人の代官により管理され明治維新を迎えた。
 明治元年7月宮谷県に属し、同年9月水野忠敬が菊間村に居を構えて菊間藩とした。急な国替だったため城を築く暇もなかったものの戦闘を考慮して四方水田に囲まれ、北には村田川の流れる台地に陣屋を設け、東西に走る道路は紆曲させ、水田に下る所は急坂としていた。
藩庁は菊間忠霊塔の西南に隣接する字「雲の境」におかれ移住当初は武家屋敷が軒を連ね、旅館からすし屋、そば屋、浴場まででき大変賑わったということである。近年まで徳永台などに武家屋敷が数軒残り、当時の面影を伝えていたといわれている。
忠敬は教育にも熱意を示し、菊間移住と共に沼津時代の校名を継承した「明親館」を開校、これが明治5年の学制発布の後に菊間小学校となった。また、藩士族への授産として養蚕伝習所を設けて蚕業をおこし全村に普及させた。
 明治4年7月の廃藩置県により菊間県に属し、同年12月木更津県に、同6年千葉県に属した。
同11年郡区町村編制法施行の際、菊間、古市場、大厩、草刈の4村が村連合を組成し、同17年戸長役場所轄区域の更定によって山木村が加えられた。同22年の町村制実施により菊間、古市場、大厩、草刈の4村が合併し菊問村となった。村役場は争間藩の医局に設けた。しかし、明治33年雨による災害を受け一時字姉込の福寿院に仮設し、明治45年字樋口に新築した。
 昭和の時代を迎え、昭和30年八幡町と合併市原町となる。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より