「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

 地名の由来は、承平天慶年間(930-940年頃)この地阿弥陀畑に城を構えた紀伊の浪士土橋平蔵平政常によるといわれる。この土橋氏は天正19年(1590年)に豊臣氏に滅ぼされるまで約650年間存続したらしいが、記録等はほとんど残って分らず、居住年代についても諸説があり城の構造から推して1390-1590年の約2百年ともいわれる。室町時代中期(1400年頃)には米原に地蔵信仰の霊山として曹洞宗大通寺が開山し、足利氏から寺田を寄贈されている。
 応永25年(1418年)に上杉禅秀の家臣榛谷小太郎重氏を将とし、関東管領に背いて根古屋城(米原浅間山)に陣を敷き追討された上総本一発が起こり、歴史的に上総国支配の転換期を画している。戦国時代のこの周辺の支配関係については、不明なところが多い。地理的には長南武田氏の勢力下であるが、武田氏自体がときに里見氏ときに北条氏と結びついている中で近郷7掘を支配していた土橋氏がどのように対応していたのであろうか。
江戸時代には、旗本知行、大名領に分割されたが、明治元年に鶴舞藩井上氏の封土となった。
 明治4年鶴舞県が廃止され、木更津県所轄となり、同6年千棄県所轄となった。明治9年には区制のもと、平蔵、米原は山小川区となり、役場を平蔵に置き、小草畑は吉沢区に編入された。平蔵・米原・小草畑が合併して平三村となったのは、明治22年町村制施行によるものである。昭和29年には南総町となった。
 明治期以降に本地区で特記されるものとしては金融機関が拳げられ、当時、郡内には5行しかなかった頃、その内の2行、正信銀行(明治24年開業)、小草畑銀行(明治32年開業)が立地している。これは、当時の生活様式が米や野菜を除いては、山林資源に頼るところが大きかったところから推測して、本地域の山林地主の資本力の強大さを示しているものと思われる。やがて正信銀行は現在の千葉銀行に継承され、小草畑銀行は昭和2年の金融恐慌時に建物を茂原に移転したが、その後は不明である。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より