「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

大蔵から縄文早期の尖底土器が出土しているほか、藪・皆吉・西国吉等に縄文遺跡が存在するところから、古くから人が居住していたことがわかる。本地区の開発の歴史は確実なところは不明であるが、弥生時代中期までさかのぼることが出来ると推定される。佐是には前方後円墳を含む古墳群が存在するほか、牛久・妙香・吉野台などにも古墳群がみられ開拓が進んでいたことが想像される。
 佐是は「和名抄」に出てくる古い地名であり、ここには平安時代の末、千葉氏の一族、佐是四郎(伊北庄司掌仲の子息祥師)がいたらしい。
 また皆吉郷は鎌倉幕府の記録(吾妻鏡)にもあらわれ開拓の古さを物語っている。戦国時代には真里谷武田氏の一族武田国信は佐是城(嶽城:かけぎじょう)に在城し、佐瀬三郎を名棄っていた。
 この佐瀬氏は、1552年椎津城主武田信政が北条方に内通したことで、里見軍の猛攻を受げ援軍として赴いた佐瀬氏は討死し落城した。
伝説によると南部の藪(一部は外部田)には藤原不比等の後裔大館氏が構えていたといわれており、勢力範囲は、藪、岩、外部田、久保、駒込などの幸田郷であったらしい。この大館氏は約千年前の17代目定重の時に、源頼光に攻められ滅びた。この源頼光は後に上総大介となったという伝えがある。その後この地区には、中世城郭(城主不明)が築かれたが池和田城とともに落城したとおもわれ北条氏の支配下となり、徳川時代は、水野要人を始めとし多くは旗本の知行となった。
 寛文(1661年)以前は、上宿、中宿の南側に沿って養老川が流れており、そこに河岸場が 2か所あったという。
 牛久は宿場町として栄え、八坂神社の祭礼には、江戸末期から伝わる牛久囃子がいまでも上、 中、下宿で盛大に7月20目前後に奉納されている。
 明治以後、明治元年7月から御料地となり柴山文平の支配、同年9月水野出羽守の所領、同11月には丼上正直の所領、明治4年7月には鶴舞県、同年12月に木更津県とめまぐるしく変り、明治11年郡区町村編制法施行の際、牛久、奉免、妙香、中の4村、西国吉、佐是の2村、皆吉、藪、金沢、大蔵の4村がそれぞれ村連合を組成し、岩は久保他4村と共に村連合を組成した。
明治17年戸長役場所轄区域更定の際、これらの村は、3つの戸長役場に属していた。
明治22年町村制施行に際し、佐是、皆吉、牛久、奉免、妙香、藪、岩、金沢、大蔵、西国吉、中の745戸、4,339人の明治村なる自治体がつくられ、その後大正13年牛久町、昭和29年南総町、昭和42年に市原布へと合併した。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より