「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より  

この地区は、養老川の流域に位置し飯給上の原、上平野、上田渕など縄文遺跡の存在から、古くから先住者が生活していたようだ。中古には高糖郷に属していたという。伝説によれば飯給の地名由来は弘文天皇(大友皇子)に午食を捧げたことに因るという。
戦国時代には真里谷武田氏と里見氏の勢力の接する地点とみられ、1570年頃の里見家相続争いに係わる旧跡もある。その後、徳川時代月出が勝浦藩領・武蔵岩槻藩領だった以外は、久留里藩土屋氏・黒田氏や旗本の所有を経て明治に至っている。
 明治維新の際には宮谷県の支配となり、同2年には井上氏の所領(月出を除く)となる。明治11年には千葉市原郡役所の管轄に帰し、飯給・徳氏・大戸・万田野・柿木台の5か村の総合戸長役場を飯給に置き、田渕・月出の戸長役場は田渕に置かれ管理される。明治22年の市町村制施行により、平野村を加えた8か村が合併し、里見村と称する。里見村の名称の由来についてはかってこの地が里見家の所領であったことに因っている。昭和29年に近隣4か村で加茂村になる。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より