「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より
中古、五井村、平田村は市原荘の地であり、武松郷とも称していた。また五井は”御井”、”五位”等で表されていたが後に改められたという。
君塚の白幡神社にまつわる伝説}日本武尊が東征の際、この地で休憩され、農民に命令して塚に杖を立てさせたとある。このことから、村落を武の郷と称し、武の塚神と号したという。
また古墳時代には、上海上国造(姉崎中心)が置かれたことで当地区も、その支配地となっていたであろうし、かつまた律令制下に至っても上総国府、上総国分寺などと目と鼻の先に位置しており、この支配下にあったと考えられる。勢力関係に加えて、文化の側面からも、中央文化の受容できた地であろうと考えられる。
治承4年(1180年)源頼朝が石橋山合戦に敗れた後、安房を経て土総のこの地(白幡神社) で休み、千葉介常胤を待ったという伝説がある。また、鎌倉幕府が上総国を関東御分国に指定しているなど、この地区の持つ地理的条件などから、三浦半島や千葉介のいた下総と係わりを持つ要所と考えられていたようである。、
天正18年(1590年)徳川家康が関東を領した際、松平家信は五井5千石を与えられ以後4 年間文禄3年(]594年)まで封している。
徳川家康は交通の要所となる所に上級家臣を配したと言われ、千葉県下においても松平氏を含め、それを窮うことができる。このことで、五井が当時既に駅地として形成されていたと考えられる。
承応元年(1652年)に神尾守勝が下総国金親から五井村へ知行替となり、以後神尾一族の支配が続いたが享保5年(1720年)には、代官野田三郎右衛門が支配することとなった。
さらに享保11年(1726年)に五井は有馬氏倫の領地となり、以後有馬氏は天保11年(1840年)まで引続き封されている。
氏倫は、主要地方道千葉鴨川線の五井市街の直線道になごりを残す市街整備をしたと伝えられ、また天明元年(1781年)氏恕は、字柳前(五井駅近く)に陣屋を設けたと伝えられている。これは伊能忠敬の沿海日記に「五井宿と云場なり、有馬備後守在所」とあることにも窺える。
この時代享保12年(1727年)に、後に岩崎新田と名付けられた清兵衛新田が江戸の下村清兵衛によって開墾され、宝歴9年(1759年)には、後に玉前新田に改められた見立新田が代官吉田源之助によって開拓されている。
また、現在に残る五井大市は、万治元年(1658年)に江戸深川の釜六と釜七という金物屋によって開かれた「鍋 釜の市」が始まりだと伝えられている。このようなことからも五井が、この時代既に近隣から人の集まった地であったといえよう。
明治に入ると元年(1868年)知県事柴山文平の支配となり、その後菊間藩主水野忠敬の領地となった。当時、岩崎、玉前、出津の一部は鶴牧藩水野忠順の領地である。明治4年一時菊間県の菅轄を経て木更津県、同6年千葉県の所轄となっている。
同6年大小区分画の行かれた際、5大区中、出津、岩崎新田、玉前新田は1小区に、五井、平田、村上、君塚、岩野見は2小区に、村上は3小区に編入され、同9年に至って君塚が5小区に、その他は4小区に編入されている。
同11年郡区町村編制法施行によって、五井は1村独立、出津、岩崎新田、玉前新田は松ケ島と、平田は村上と、君塚、岩野見は五所金杉と村連合を組成した。同17年戸長役場所轄区域の更正により、五井、出津、岩崎新田、玉前新由、平田は同一戸長役場の所轄に、また君塚、岩野見は西野谷他2村と、村上は市原他9村と所轄区域を同じくしている。
同22年市町村制施行により、五井、出津、岩崎、平田、村上、君塚及び岩野見が合併し五井村となった。新村名は五井が地域の中にあって圧倒的な大村であり、著聞した地名であったことから決定きれたという。その後、同24年町制をとって五井町となった。
昭和28年の町村合併促進法施行によって五井町は、同29年11月3日東海村を合併、更に同30年3月20日干種村を合併している。
同年同月31日旧千種村白塚、柏原及び今津朝山、青柳の一部を分割し姉崎町に編入した。また同30年7月1日市原村加茂、根田、惣社及び西広を編入、更に同31年9月1日三和町小折、今富、柳原及び西野、柳原及び西野、十五沢、宮原の一部を編入また同31年11月25日三和町引田、神代の一部を編入した。
昭和32年県知事からの五井、市原、姉崎3町合併による市制施行の要請を契機とし、迂余曲折を経て、昭和38年5月1日五井、市原、姉崎、市津、三和の5町が合併し県下19番目の「市原市」の誕生となる。
「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より