「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より
養老川本流に隣接する安久谷・江子田の南総中遺跡では、同一区域で先土器、縄文、弥生、古墳、各時代の遺構や遺物が発掘されて静り、なかでも方形周溝墓の弥生時代中期における存在の確認は貴重な資料を提供している。このように本地区は、古来から人々が生活を営むのに適地であったことが窺える。また石川には須恵器を焼成した窯跡があり、奈良時代後葉から平安時代かけて不入永田窯とともに須恵器の供給地であったことが判明している。
内田の歴史が文献に登場するのは、行基の彫った仏像を安置し国家安泰を願ったと伝えられる太子堂寺が1177年真ケ谷に創建されたことが最初であり、その後1521年には里見家多賀氏が石川に龍渓寺を創建したことが記されているが、政治史の舞台にはなっていない。ただ真ケ谷の要害台および米沢、石川などに山城があるが、年代、城主、経緯とも不明である。
江戸時代は寛政5年当時は、島田・奥野・水沢・真福寺・真ケ谷は旗本永井氏の知行それ以外は3千石の旗本伊丹氏の知行であり、宿に陣屋を構えていた。
内田村は承応年間(1652-1654年)伊丹播磨守知行となったが、当時は内田郷と称していた。亨保年間(1716-1735年)に上内田・下内田両郷に分かれ、上内田は水沢・奥野・市場・堀越・島田・宿の6村、下内田は真ケ谷、真福寺、腰巻・大西・悪谷(安久谷)・江子田・原田・石川の8村であった。幕末には真福寺・腰巻・大西の3村は合併して米沢村となった。明治元年に一時宮谷県所轄となったものの、同年12月鶴舞藩井上氏の封土となった。明治4年鶴舞県が廃止され、木更津県所轄となり、同6年千葉県所轄となった。明治9年には区制のもと市原郡(第5大区)の11小区として安久谷に役所が置かれたが、その後、同11年上下の内田郷は牛久村鶴舞村に分割された。明治22年町村制施行により、旧内田郷12か村が合併して内田村となり役場は宿に置かれた。大正12年には郡制が廃止された。昭和29年には南総町となった。
「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より